
さて、蓮蔵坊事件についてここまで紹介してきましたが、実は日郷と日道の間の争いで収まる事ではありませんでした。
私が創価学会で活動を始めた頃、「日蓮正宗勤行要典」には以下の御祈念文がありました。
「南無日道上人、日行上人等御歴代の御正師云々」
つまり富士の清流七百年の法統伝持は日蓮大聖人から日興上人、そして日目上人から日道、日行へと連なってきたと教えられていたのです。
しかし前回までの記事では蓮蔵坊の住持である日目の高弟は日郷であり、その日目が生涯最後の天奏の際に随伴した一人は日郷でした。また蓮蔵坊(大石の寺の坊)の住持も日郷であり、日道や日行は地頭の南条時綱の裁定によって、蓮蔵坊を継ぐ立場ではなく、日道に至ってはその後に失意の中で病死をした事となっています。
しかし創価学会の中で、日目の高弟である日郷については以下の様に語られていました。
「四世日道上人の時、日郷が蓮蔵坊一帯の地を目師より相伝したと主張し争いを起こし、それいらい大石寺では七十年に渡る紛争が続き、疲弊の果てに顕れたのが(中興の祖)日有上人である」
しかしここまで紹介してきた蓮蔵坊事件の内容を見てみると、これは全くの歴史の認識が歪曲されていた事が解ります。なにしろ当時の創価学会は、大石寺の信徒の団体なので、保田妙本寺を「邪宗の寺院」という認識しか持てておらず、その寺院を開基した日郷もさしずめ邪宗の僧とした理解していません。
またこの蓮蔵坊事件の顛末の資料の多くが、現在は日郷の開いた保田妙本寺の所蔵されており、大石寺には殆ど現存していない事から、結果として歴史的な検証が行えない状況と判断されての事かもしれません。
江戸時代の大石寺第十七世の日精が「家中抄」の中で、この蓮蔵坊事件について歴史的な史実を深く検証せずに事件の顛末を著述していた事も、こういった歴史的な歪曲を更に強めた背景にあるようです。
ただし大石寺の大学匠と言われた堀日亨は、保田妙本寺の資料を掘り起こす中で、この蓮蔵坊事件の真相を知ってしまったようです。しかしながら堀日亨も大石寺の系譜の中の一人であった事から、この事実には口を閉ざした様に思えます。しかしながら富士宗学要集の一部に、この蓮蔵坊事件の一端について「日精の暴論」として日精の家中抄の誤記について注釈をつけていたのです。
◆蓮蔵坊事件の顛末
日郷と日道の間の騒動だけで、この蓮蔵坊事件は収まりはしませんでした。
日郷に対して大石が原の東方を安堵したのは、地頭の南条時綱でしたが、その時綱も歴応三年に没し、地頭職を長男の長時が継ぎました。ちなみに長時の次男の牛王丸は後に出家して日伝となり、保田妙本寺の二代となりました。
この地頭職が変わった事を見て、南条家の持仏堂に居た日道の弟子である日行は、再度蓮蔵坊の奪取を画策しはじめました。しかしこの動きは南条時長が、この当時安房にいた日郷に対して「南条左衛門尉時長証状」を与える事で、一気に日行の動きを封じたのです。
この為に日行とその一派は、その後二十年に渡り、鳴りを潜めざるを得なくなったのです。
その後、日郷は大石の寺の蓮蔵坊の付属状を文和二年四月八日に上野村大衆に与え、小泉の妙円寺で亡くなりました。享年六十一歳でした。
そして日郷の七回忌の時に、日道の下から出て日郷の弟子となった日叡によって、大石に東御堂が建立されました。そしてこの年、南条時長の次男の牛王丸は出家して中納言日賢となりました。(後に日伝と改名する)そしてこの頃から蓮蔵坊と東御堂を合わせ、小規模ながら「大石寺」と称する様になり、その大石寺の管主はこの日伝が保田妙本寺と兼務する事になりました。
さて時代も代わり貞治二年(1363年)、関東管領に上杉憲顕がなった頃に、地頭職が廃止され南条時長は辞職し、上野村の地頭には河東の代官興津法西が兼務する事になりました。
そこで南条家の持仏堂に居た日行は、時長が亡くなったタイミングで南条家の結束をはかり、かつて日興師の坊舎であった大石寺の西側にあった白蓮坊を改修し、蓮蔵坊奪取の為の行動を始めました。
この顛末については、様々な事があるので要をまとめて言えば、駿河の守護の今川氏や鎌倉管領を巻き込んだ騒動となり、日伝と日行、また日伝と日時での騒動となりましたが、結果として日伝側が折れ、日時が蓮蔵坊(大石寺)を得る事で、応永十年(1403年)最終的な決着となりました。
また決着にあたり、日伝は蓮蔵坊にあった様々な資料や宝物については、小泉久遠寺に移していたのです。
◆蓮蔵坊事件か見える事
蓮蔵坊事件を通して日興師の亡くなった後、日目や日郷、日道から日行の歴史的な事柄を追っていくと、果たして大石寺のいう「法統連綿七百年」とか「唯受一人の血脈相承」というのが、この歴史上の出来事の中には、一切見えてこない事が解ります。
そもそも日興師は本六を定め、その後に重須の寺に移り後継の育成に勤めていました。そして本六に定められた日目師は蓮蔵坊の拠を構え、東国の弘教の責任者を命じられていましたが、本六の他の高弟たちも、ぞれぞれの任地を与えられ弘教に動いていました。
また日興師が亡くなった後、時を待たずに日目は天奏に向かいますが、美嚢の垂井の地で客死してしまい、その遺骸は京都に埋葬されてしまいました。そしてその日目に随伴したのは日目師の高弟筆頭の日郷であり、後に要法寺となる上行院を開いた日尊の2人でした。
その後、日郷は大石が原の寺へ戻るも、その後は安房方面の弘教に注力し、後継の人材を育成する為に東奔西走の人生を送っていました。
一方の日道は日興師が晩年に定めた新たな高弟の一人となりましたが、見るべき実績の記録が現存しておらず、日興師の御遺物配分にも預かる事も無いばかりか、重須の寺も日興師の死後に地頭の横車で日興師の御内は排斥されてしまい、日道の後輩が貫首に就いてしまいました。
そこで日道は自身の行く先を見失い、蓮蔵坊に目を付けて様々な事を画策しましたが、日郷からはまともに取り合われる事もなく、結果、日目が拠点とした蓮蔵坊を得る事は叶えられる事なく、病の中で没してしまったのです。
そして日郷と日道がこの世を去り、蓮蔵坊は大石寺となってからも、日道の弟子の日行と更にその弟子の日時、そして日郷の弟子の日伝の間でも争いが続き、結果としては時の権力者の裁定の下で、日郷の弟子の日伝が手放す事で決着が着いたのです。
この歴史的な事実の中のどこに、日蓮・日興・日目・日行・日時という系譜の筋目があるというのでしょうか。
日目は日興師の初期の高弟の中の一人であり、日道は晩年の高弟の中の一人でした。そして実績麺から言えば、日目の高弟である日郷こそが、日興師の跡目を継ぐ資質がある様に見えますが、何故から四代は日行であり、権力側にすり寄り蓮蔵坊をかすめ取った日時が五代目となっています。
まあ信仰の世界から見れば、麗しき血脈相承を夢見るのは良いのですが、こういった歴史的な現実を無視した上で、血脈なき信心とか、それに依る偽本尊論を振り回すのは如何なものなのか。私は大いに疑問を持ってしまうのです。