自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

はじめまして

はじめまして。

 

Hatena Blogを始めました、斎藤単己と言います。

単己とは法華経に「況んや復単己にして遠離の行を楽えるをや。」(従地涌出品第15)ある言葉から引用させてもらいました。

私は二十代から四十代までの四半世紀近く、創価学会の中で活動をしてきましたが、四十代半ばで組織活動から足を洗い、現在に至っています。

人生をそろそろ振り返りが必要な年齢になった今、別に組織で徒党を組んで生きていかなくても良いし、やはり自分の人生、考え思う事は自由でありたいと考えたからです。

ここでは創価学会で経験した事、学んだこと、そしてそこからの自分自身で考え思った事について書き連ねていきたいと思っています。

もしお時間がある方がいたら、お付き合い頂けたら幸いです。

 

これからもよろしくお願いします。

 

本門の十界の因果について(考察)

ちょっと長くなりましたが、J.L.ホイットン氏の「輪廻転生 驚くべき現代の神話」の中から臨床例を一つ紹介をさせて頂きました。

まず人は今世だけの存在なのか、という事については、以前に以下の事例紹介を行いましたが、恐らく人の心というのは今世の後も続くのでしょうし、今世以前にも心というのは存在しているものと私は考えています。

tango-saito.hateblo.jp

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◆因果の理法

このホイットン氏の臨床例は、この書籍の中でも幾つか紹介されていますが、一般的に仏教では「業因業果」と言い、例えば過去世において仏法を誹謗すれば邪見の家(邪宗教の家庭)に生まれるとか、過去世に泥棒をすれば今世には貧乏の家に生まれるという事が言われていますが、ホイットン氏の研究の中で見えた業因業果とはそれとは異なるようです。

ホイットン氏が退行催眠の中で、被験者のいくつもの過去世の人生、またその終焉の度に訪れる中間世の中で、常に行われていたのは、「課題解決の為の問題設定」という姿であり、その時々設定される「問題」が「業(カルマ)」であるというのです。そしてそれは「前世に人を殺したから、次は殺される」とか「前世は泥棒だから今世は貧乏人」という事ではなく、人の人生とは中間性で自分自身が計画してきた事であり、その計画の中で問題を設定し、それを乗り越え受容する事で、その人の人格向上に向かう事が出来るという事を、生きていく上の問題として持って生まれてきているというのです。

現にホイットン氏の臨床例の中では、その事に気付き、その問題と正面切って向き合う人たちが劇的に変化する姿が紹介されていました。これはまさに「予定調和」という事に近しい事なのかもしれません。ただ提唱者であるドイツの哲学者であるライプニッツの言う「神が計画した」ではなく、ホイットン氏は「自身が選択した」という結論を出しています。ホイットン氏も恐らくキリスト教信徒とは思いますが、こういった結論に至った処は実に興味深い事ですね。

ちなみに仏教の中には「願兼於業」という考え方があります。

これは既に煩悩をほぼ断じている菩薩が、人々に法を説くために、あえて「業(カルマ)」を背負って生まれてくるという考え方です。ホイットン氏の考えている「業(カルマ)」は、どちらかというとこの考え方に近しい事と私は感じています。

私はこの事によって、全ての「因果」の流れを否定するという事ではありません。この世界の中に於いては、物事とは常に原因があって結果があるという流れです。今の科学にしても基本的にはその考え方の上に成り立っています。しかし人の心の内面の世界に於いては、この因果という関係はそんなに単純な事では無いようです。

◆人の人生は計画されているか

またホイットン氏の症例の中で、「神殿」と「裁判官」という言葉が多く出てきます。そして裁判官はその人物の過去の生き方を知悉して、次の生き方の助言をすると言います。またこれに似た話としては、エベン・アレクサンダー氏の中では「光る存在」というのが出現し、木内鶴彦氏の臨死体験では、この世界の成り立ちについて理解出来たという話もありました。

ここでまず考えなければいけない事は、人は目の前に出現した出来事を言語化するには、それまでの経験で理解した事を使い、出現した内容をその言葉で表現するという事です。例えばその人が尊極な存在と感じた事を、キリスト教徒では「神」という言葉や外観で説明し、仏教徒であれば「仏、菩薩」として表現してしまう事もあるでしょう。だから「裁判官」とか、臨床例として紹介したヘザーが語ったエジプト紳のイシスという存在は、何もその名称に固定されたものではなく、そういった言葉でしか表現できない存在と出会ったという事なのではないでしょうか。

ここで大事な事は、数ある臨死体験や、退行催眠による中間世の体験とは、心の内面の事象という事であり、そこで経験した出来事は、人々の心の中の奥底、それは恐らく日常生活では本人すら感知出来ないレベルの事象である、そのレベルではこの世界の成り立ちや人生の意味、そして目指すべき事という事を理解している部分があるのではないかという事です。

この事を考えてみた時、日蓮が開目抄で書いた以下の言葉についても、より具体的な事象として見えてくると私は考えているのです。

「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」

またその心の奥底にある存在との間で、人生とは計画されてきていると言いますが、先のヘザーの話でも見て取れるように、その計画とは絶対なものではなく、成就する事もあれば挫折とん挫する事もあるようです。これは最近、別な話でも良く聞く話しで「過去は決まっているが未来は不定である」という事と同様な事を指しています。

人生とは自らがこの世界に生まれる前に、自分自身で人生を設計し、その為に必要な課題を「業(カルマ)」として背負って生まれてきますが、それはけして運命論者の言う「決まった運命」ではなく、あくまでも「計画」であるので、その目的を達する事が出来るのか、出来ないのか。そこは個々の人生の生き方次第という事なのでしょう。

ただこういった話は、行きつくところ自分自身で、理解出来るか出来ないかという事であって、他人が「予定調和」だ「お前が計画してきた生き方なんだ」という事ではありません。そこを間違えてしまうと、これはとても危険な思想にもなってしまいます。

以上、少し長い文書になりましたが、久遠実成から本門の十界の因果という話を紹介してきました。これに対する確証も無ければ、これが絶対の定理という事でもありません。そもそも仏教自体が、二千年以上にわたり、多くの人師や論師が経典を軸として、思索し構築された思想体系なのです。それを各自がどの様に自分の人生の上で解釈し、生きるかてと出来るか、そこが一番大事な事だと思います。

ここで書いた事が、読んでいただいた人の人生に、少しでも役に立つことがあれば幸いです。

 

中有からの考察④

前回からの続きです。

ヘザーの前身であるイソベルはピアノの才能に恵まれながらも、社交界で奔放な行動から自滅の方向へ進んでしまいました。

◆イソベルのその後とその人格

イソベルは事故にあった後、イギリスのサセックス州に看護師と二人の使用人と共に暮らしていました。傷跡の残るゆがんだ顔、頭と首の傷は薄緑色のスカーフで隠していて、右手は水膨れとしわの寄った状況で使い物にならない状態でした。その為にピアニストとしての人生は終っていたのです。彼女はこの人生にお別れを告げたいと考える様になっていて、ある時、友人が見舞いに訪れた際の何気ない一言をきっかけとして、極寒の海の中に入水していきました。

このイソベルの状況を聞いたホイットン氏は、ヘザーへの治療効果を考慮しつつ、このイソベルの人格の軌跡を追う事にして、継続して催眠誘導でその過去の人格の追跡調査を行いました。そこではキリスト生誕の時期や神聖ローマ帝国の時代の記憶といった、多くの人格を確認しましたが、いずれも芸術や工芸の類に従事してきた事を確認しました。

◆たった一つの人格

これら多くの過去の人格で、イソベルの存在を除けば、現在のヘザーの問題に関わる人格としてたった一つの人格に行き当たりました。それはフェルデナンド二世(1619年~1637年の神聖ローマ帝国の皇帝)の女性の人格で、名をイヴァンジェリンという貴族でした。

彼女はスペイン貴族の男性と恋仲に堕ちたのですが、そのスペイン貴族の男性は既婚者だったのです。結果、この恋仲は男性貴族を中心とした貴族の妻とのライバル関係となり、それは宗教裁判まで発展してしまったのです。そしてヘザーの前世の人格であるイヴァンジェリンは拷問を掛けられ殺害されてしまいました。

この情景を見たヘザーは大きな叫び声を上げてしまい、恐慌状態に陥ってしまいました。

ホイットン氏はこの時、ライバル関係であり、イヴァンジェリンが拷問死の最後に眼にしたのはこの貴族の妻の姿だったのですが、ヘザーは自己催眠の中で、この女性の転生した存在が自分の母親だと理解しました。ヘザーの母親はこの時の貴族の妻とそっくりな行動をとり、何かにつけてヘザーの行動を邪魔する様な事をしていたのです。そこでホイットン氏は再度イソベルの人格に戻り、そこからイソベルが中間世でどの様な事があったのかを探る事にしました。

イソベルは北海の極寒の海で入水してから、死後の中間世へと移行し、そこでは光り輝く果てしの無い世界に漂っていました。そしてそこには大きな神殿があり、そこには古代エジプトで語られたイシスが居たというのです。そしてイシスの前で人生の回顧をする中で、実はイソベルが生き続けていたら、それなりに実績を上げた素晴らしい人生になる事が計画されていた事を理解しました。しかし実際には奔放に生きてしまった結果、自滅の人生を歩んでしまいました。

そこでその人生のやり残しをする為に、実はヘザーのという人生を計画したというのです。またその時に誰を母親にするかという事で、イソベルが選択したのは、先の人生のイヴァンジェリンの時に恋仲のライバル関係であった母親だったというのです。

彼女はこの選択をした時、叫び声を上げました。この時、イソベルはこの母親は選択したくないと拒絶しましたが、その中でもこの自分自身の課題を解決するためには、どうしてもこの母親を選択しなければならないという気持ちになったそうです。

この中間世への旅でヘザーが理解したのは、今の人生はイソベルの人生の「やり直し」として計画されたもので、その際に、過去から持てる課題、ここでは奔放さと言っても良いかもしれませんが、それを解決する為に、実はその前の人格であった恋仲のライバル関係であった人格である、今の母親のを選択してきたという事だったのです。

◆ヘザーのその後

こうしてホイットン氏の下で一連の退行催眠により、自分自身の今の人生の意義を理解したヘザーは、アレルギー症状も改善し、以前の様な抑うつ的な症状も改善したと言います。その後は宝石デザイナーとして仕事を取り組みながら人生を生きているとの事でした。そしてヘザーの夫も彼女のこの変化した姿を見て「何か憑き物がおちて、あらたな人生を歩みだしている」と感じたそうです。

以上がホイットン氏の臨床例の一つの話でした。

ホイットン氏はこの様な臨床例を多く蓄積しながら、中間世の存在を考察し、そこから輪廻転生の中での「業(カルマ)」という事について、一つの見解を導き出しました。

ではホイットン氏の導き出した見解と、法華経の「本門の十界の因果」がどの様に関係してくるのか、それについては次回の記事で少し考察した内容を書いてみたいと思います。

 

【参考資料】
「輪廻転生・驚くべき現代の神話」 J.L.ホイットン著

 

中有からの考察③

心の本源についてみていく事が、これまでの記事の目的です。そして私の考察を説明する上で、このヘザー女史の体験というのは極めて大事だと考えていますので、もう少しの間、お付き合いください。

◆劇的な症状改善

彼女はこの後、翌日の夕方六時までこんこんと眠り続けました。そして霞む目をやっと開けた時、自分がアレルギーの薬なしに快適に呼吸が出来る事に気付きました。これに彼女は驚きました。またそれまで引っ切り無しに続いていた頭痛や耳鳴りもなくなっており、いつもの胸の締め付けられる感覚も無くなっていて、肌も綺麗になっていたのです。

彼女は嬉しさのあまり、電話でホイットン氏にこの状況の報告を入れました。ホイットン氏も受話器の向こうで嬉しさを隠し切れずに話すヘザーの声を聴いて信じられませんでした。二日後には薬を飲まずにヘザーは外界の空気に触れましたが、アレルギーの症状は出てきません。この事について彼女は日記に記しています。

「1979年9月4日 歌のレッスンのあと、Kさんと会う。猫の毛だらけのところに座り、Kさんのたばこの煙の中で息をしても、くしゃみも咳も出ない。そのあとアレルギー剤を飲まずにすんだ。私にとってすごく珍しい事だ。すごくうれしい」

「1979年9月20日 今日はH医師のところへ行く。どうして突然アレルギーが完治したのか説明するのに苦労した。二人で大いに笑った。私がアレルギー剤を飲まずにすむようになり、先生は喜んでくれた。看護婦さんからもお肌がきれいになりましたね、と言われた」

この時のヘザーはアレルギーが目に見えて良くなった事で浮かれる一方、三週間の間、発作的に泣き叫んだり、悪夢や抑うつに苦しんだりもしていました。しかしその間、ホイットン氏の下へは行かず、自分ひとりの世界に閉じこもっていました。

ホイットン氏も何が原因で彼女の無意識が活性化したのか解らなかったので、彼はこの状況を楽観視せず、むしろ要注意していたのです。そして彼女が週一回の診察のペースを取り戻すと、ただちに彼女を催眠のトランス状態へ誘導しました。ホイットン氏は自身の眼で、自動車事故について確かめたかったのです。

この催眠の中で、ヘザーの語った内容は次の様なものでした。

◆イソベルの事故の状況

「地中海の水平線に照り映える夕日い向かってイソベル(ヘザーの前世の人格)とロバートと言う男性が猛スピードで車を走らせています。二人とも二日酔いに痛む頭を抱え、激しく言い争っていました。ロバートの子を身ごもっているイソベルは彼と結婚したがっているが、ロバートはそんな事はごめんだと思っている様です。フランスとイタリアの境界にそびえるマリティムアルプスの麓を通る、曲がりくねった海岸道路を危険なヘアピンもなんのその、ロバートは怒りに任せて車を飛ばし続けます。そして急カーブに差し掛かった頃、乗っていたブガッティは、道路わきの低い柵をすさまじい音を立てて押しつぶすと車は宙に舞い、灌木やしげみを根こそぎにして、崖の横腹にバウンドして岩肌に衝突しました。そしてその瞬間、大音響とともに爆発が起きて、ロバートはハンドルと椅子に挟まれて即死、イソベルは助手席から砂地へと放り出され、その後何度も爆発があり、イソベルの右半身は熱と煙に包まれてしまいます。まずはドレスに火が付き、次に髪の毛に火の手が回り、炎が彼女の顔の右半分を舐めていきました。」

この事故の情景だけでも充分すぎる衝撃でしたが、またしてもヘザーは恐怖に打ちのめされてしまいました。彼女はその場に居合わせて目撃した様になり、その場にくぎ付け状態となってしまいました様でした。しかし彼女もまたその衝突の犠牲者でもあったのです。燃える車から吐き出される熱く黒い煙がイサベルの肺を焦がしている間中、ヘザーも激しくせき込んでいました。この催眠誘導は何時でも抜け出る事が出来るのですが、ヘザーはその後の情景も見続けました。集まる群衆とフランスの消防隊の「サイレンではなく鐘をついた音」を聞き、消防隊の救援作業を見守っていたのです。

ヘザーは次になにが起きるのか、見たくはありませんでした。しかし自分自身の心痛の核心へと迫りつつある今こそ、その事から目を背けたくはなく、見たいという欲求に抗し切れませんでした。情景を続けます。

「イソベルは病室に寝かされていました。白衣の看護婦たちは大きなガーゼの包帯を水に濡らし、それを彼女の赤い水膨れの出きた体に巻いていきます。イソベルは苦痛に呻きます。右半身全体は大やけどの状態で、右目と右まゆはじくじくと腫れあがっていて、どこにあるのか見えません。看護婦は濡れたガーゼをあてて、二~三分置きにガーゼを交換しています。イソベルにはモルヒネを規定内で大量に投与しなくてはと話をしています。また流産したこの患者は二十四時間は持たないだろうと感じてもいたようです。」

ここまで来てヘザーは気分が悪くなり催眠から覚醒しました。ホイットン氏は数分待ってからヘザーにイソベルが事故から発生したガスを吸引した事と、ヘザーの気管支炎失陥などが結びついた事で、問題の核心に近づいた事を説明しました。ヘザーもアレルギー症状が無くなり有頂天になっていながらも、憂鬱さが強く増したように感じていました。

このイソベルの重い記憶にあえぎながらも、ヘザーはイソベルへの知りたさが募りはじめ、これから二~三週間にわたり自己催眠の中で、イソベルの生活を追っていく事にしました。そこで知りえたイソベルの人格とは次の様なものでした。

◆イソベル(ヘザーの過去世の人格)の人間像

「イソベルは確かなピアノの腕前と裕福な環境、その魅力や人気、また美貌の陰で深刻な心の問題に苦しんでいました。彼女は才能と美貌で若い女性が求める全てのものを手にしていましたが、利己主義で自滅的なところがあり、真の愛情を知らない様に見えました。幼くして孤児になった彼女は家政婦の手で育てられ、愛情に飢えていたのです。

イソベルはニューヨークの音楽学校で学ぶため、19歳でイギリスを出てアメリカに渡りました。1924年には彼女のマネージャーであるニコラスというロシア系ユダヤ人が、アメリカでのリサイタル出演契約を幾つか取り付けました。ところがその頃からイソベルの生活はプロのピアニストの生活からは離れて行ったのです。理由は社交界の派手な生活の魅力に心を奪われたからです。

イソベルはアメリカからイギリスに戻ると、ニコラスとの結婚を決めました。彼女にとってニコラスは父親の様な存在であり、心の拠り所でした。しかし社交界での派手な生活が身についてしまった彼女はロンドンと南フランスで奔放な生活をしていました。そしてそこでロバートと出会います。そして彼の子供を身ごもった事で、ニコラスとの関係は険悪なものとなり、家から飛び出してしまいました。その後、ブガッティによる事故にあってしまいますが、ニコラスも間もなく心臓発作で亡くなってしまいました。原因はイソベルとの喧嘩であったそうです」

ヘザーはここまで自己催眠で知った時、このイソベルから自分自身が多くの「業(カルマ)」を受け取っている事を理解しました。実はヘザー自身もメキシコシティではピアノの天才と呼ばれていて、メキシコきっての音楽学校へも通っていました。この様に前の世代の人生が、次の世代の人生へ引き継がれるという事に興味をそそられながらも、交通事故による強烈な記憶から、その先の結果までを知りたいと思う様になっていたのです。

 

【参考資料】
「輪廻転生・驚くべき現代の神話」 J.L.ホイットン著

 

中有からの考察②

前回の記事でJ.Lホイットン氏の「輪廻転生 驚くべき現代の神話」の内容について少し紹介しました。今回はこの本の中から、J.Lホイットン氏が臨床の中で記録した患者の話について少し紹介をしたいと思います。

これから紹介する話は、ある女性の退行催眠による前世の記憶と、そのはざまの中間世の話となっています。それぞれ前世の記憶については、特に具体的な事実確認は為されていません。そもそも追跡調査はホイットン氏の治療の過程では必要としていないので、行われていないのは当然の事と思います。内容としては奇異な話にも見えますが、まずは読んでいただければと思います。

◆人生にアレルギー

これはヘザー・ホワイトヘルムという女性の話です。彼女はホイットン氏の下を訪れたのは1979年の春の事でした。

「私、体はがたがたですし、人生もめちゃくちゃなんです」

ホイットン氏の見たところ、彼女は表情も明るく健康そうに見えたそうです。しかし彼女の肉体はアレルギーの戦場となっていました。アレルギーのせいで耳鳴りが絶えずあり、その為に聴力は損なわれ、激しい頭痛、胸と喉の充血、多数の発疹、水膨れなどが発症し、その時には息をする事さえ彼女にとっては危険な事になっていました。このアレルギーは、ほこりや花粉、猫の毛、乳製品、アンゴラセーター、ペンキ、洗剤といった、ごくありふれたものに晒される事で発症していたのです。

「きっと私は、人生そのものにアレルギーなんでしょうね」。ヘザー女史はホイットン氏に話をしました。

このアレルギー症状の他にも、何度も気管支炎や肺炎を併発するので、彼女は長い間、床に伏せたっきりになってしまうとの事で、そのはじめは1977年の頃からだと言うのです。彼女の夫は生物学者で、メキシコシティからトロントへ引っ越して来てから発作が更に悪化したというのですが、メキシコシティから引っ越してきた理由の一つが、彼女のアレルギー症状が悪化し、医師から「この町から出て行かないと、五年もしないうちにスモッグで死んでしまいますよ」と言われたためでした。

彼女は長い間、アレルギー症状に苦しみ多くの医者の間を渡り歩いたそうです。そこでは様々な検査も行われ、様々な投薬も行われてきましたが、アレルギーの症状は一向に改善する事なく、時には新たなアレルギー症状まで発症する事もありました。メキシコの医者も、それら医者の一人だったそうです。

またヘザーには他にも深刻な心の悩みも抱えていて、自尊心が欠けるところがある彼女は臆病で人からの批判に容易く左右されてしまうため、宝石デザイナーとして将来性のある職も、このために棒にふってしまいました。彼女は創作に頑張ろうとするときに、必ず失敗が怖くなってしまい、仕事場に居たたまれなくなってしまうのです。恐怖は波のように彼女を襲い、うつ状態へと落とし込んでいきます。抗うつ剤の服用で対処しようとするも、彼女は抗うつ剤アレルギーも起こしてしまっていました。

ホイットン氏の下に彼女が訪れた時、ホイットン氏はまず彼女の健康状態を診察する事から始めました。その結果、彼女には気管支炎と肺炎の抵抗力が極めて低下している兆候が見えたので、そこからアレルギー症状が悪化している事が解りました。ホイットン氏はここから、一応、彼女がこれまでに抑圧してきた心理的問題が、肉体的障害という形をとっていると判断し治療を始めました。

ホイットン氏は、この時のヘザーの状態は極めて悪い事を考慮して、通常であれば落ち着きじっくり話を聞く事から始めるのですが、今回は早い段階から退行催眠を行い、彼女の過去世への調査を開始しました。幸いな事にヘザーは催眠への誘導には入りやすい体質であった事もあり、その最初の催眠治療の後、ヘザーは自己催眠によっても退行催眠に誘導する事が出来る事がわかり、自己催眠による退行催眠の記録を以て、週一回の治療を勧めました。

◆イソベルとの出会い

週一回の診察の時に、ヘザーは大量の記録日記を持ってくるのですが、そこには支離滅裂な内容もあったので、六週間ほど様子を見た後にホイットン氏も別の診察方法について考慮を始めました。そしてその頃、ヘザーはとある日の自己催眠下である出会いをしたのです。それはイソベル・ドラモントという女性でした。

彼女は周囲に物悲しい雰囲気を漂わせた女性であり、すらりと背が高く、長い黒髪をうなじで束ね上げており、ピンクのシフォンドレスを着ていました。そしてヘザーの自宅の居間をあでやかに通り抜け、黒のグランドピアノの前に座り、ショパンエチュードをみごとに弾きあげたのです。

この出会いはヘザーが自己催眠の中での出会いだったのですが、今まで自己催眠の中、出会った人物の中で痛切に自身との一体感を覚えました。また彼女の演奏する音楽は彼女を不幸な気持ちへとさせていくのです。恐らくそれは自分の遠からぬ過去世の人格である事をヘザーは理解し、次の診察の際にホイットン氏に相談しました。それを診てとったホイットン氏はヘザーに語りかけたのです。

「どうしてイソベルは貴方を意気消沈させるのでしょうか」
「もう一度、彼女について探してみましょう。そして理由が解るまで、彼女の後を追ってみましょう。」

この日、ヘザーはイソベルの事で頭がいっぱいになりました。何故、イソベルの事が彼女をこれまで飲み込もうとしているのか、その夜遅く、寝室で床につき電気を消すまでその事を考え続けました。そしてとの時、ヘザーは全身に強烈なショックで打ちのめされる感覚に襲われたのです。後にヘザーはこの時の事を次の様に語りました。

「あの時の感じは言葉には言い表せません。自分の家の中でとてもいやな自動車事故にあったみたいな感じという以外には。」

この「事故」が何のことは、彼女は当初、さっぱり理解できませんでした。そしてその直後、彼女がイソベルの”体の中”に居る事をはっきりと感じ取りました。彼女は地面に横たわり、右半身には火の手が迫っていました。そして彼女は自分の乗った車が暴走して崖から転落した事を、恐怖の中で理解したのです。そしてそれは1931年の事だったというのです。

この突然の出来事は時間にして1~2秒程度の間でしたが、ヘザーの神経は著しく消耗してしまい、隣に寝ていた夫の慰めの言葉は何も効き目がなく、明け方になるまで何度も恐ろしい情景が頭から離れずに泣きました。翌朝五時になり、夫がまどろみかけた時、シザーは寝室を抜け出して書斎に入り、タイプライターにこの様に書きました。

「ずっと震えていた、全然眠れない」

彼女の苦しみはこれで終わりという訳ではありません。それから三日間、ヘザーはイライラし泣きじゃくりました。また吐き気と激しい気管支炎の咳のためすっかり体調を崩し、引きこもり状態になってしまったのです。1979年9月1日の日記には、この様に書き込みました。

「私はいつもの予定をキャンセルしなくてはならなかった。生まれる四年前に起きた自動車事故のショックと心痛で苦しんでいるなんて、どうして友人に言えようか。ただ風邪をひいて胃の調子が悪くなったと言うしかない。みんなは私の病気に慣れっこなのだから。」

彼女はこれをタイプすると、そっとベッドに戻りながら、これから数時間後に素晴らしい難関突破が待っている事をなど知る由もなかったのです。

(続く)

【参考資料】
「輪廻転生・驚くべき現代の神話」 J.L.ホイットン著

 

中有からの考察①

前回の記事で、本門の十界の因果について、予定調和という単語で少し考えてみました。

それは人生で起きる出来事は、あらかじめ決められた事であり、それを決めているのは実は自分自身の心の本源であるという事を表すために、この予定調和という言葉を使いました。

◆J.Lホイットン氏の研究から

この事について仏教から離れ、少し別の方向からの話を少し紹介したいと思います。実は久遠実成を理解する上で、大きなヒントとなる話が近年、欧米での心理学や精神医学、またスピリチュアル思想の一部に存在します。

今回紹介したいのは「輪廻転生・驚くべき現代の神話」という書籍の中の話です。

この本は、カナダ国立トロント大学医学部精神科主任教授であり、同大学付属病院精神医であったジョエル・L・ホイットン氏の著作で、欧米では「中間世界の発見者」と呼ばれた人です。(1989年当時なので現在の立場は恐らく違うと思われます)

ホイットン博士は十四歳頃から催眠家の腕を発揮してきたと言われていて、希望者を相手にパーティーの席などでこの技を使うことがあったそうです。しかしこの時は、被験者を前世へ誘導しようと試みたことはありませんでした。

しかし二十代はじめのころ、博士は輪廻転生思想に次第に惹かれていき、催眠技法にさらに磨きをかけていきました。

トロント大学で医師の諸免許をかさねて取得した博士は、同大学の主任精神科医にりました。無意識下の人間の心についてさらに理解を深めたホイットン博士は、トランス状態の被験者たちに精神的外傷の原因となった過去世の記憶を意識にのぼらせるよう指示し、その記憶を被験者が受容させる事で、被験者たちはめきめきと劇的な回復をとげたそうです。しかしホイットン氏自身は何故そうなるのか満足のいく説明は出来なかったそうです。またホイットン氏自身も前世療法を精神疾患の治療法として効果あるものと実感はしていましたが、この段階では彼自身、前世という存在を完全には信じていなかったそうです。

ある時、被験者に対して退行催眠(前世への催眠誘導)の最中、ホイットン氏は誘導の仕方をミスしてしまいました。彼は治療の為に、被験者を幾世代もの過去世に誘導し、それぞれの生の記憶を辿っていく事をしていましたが、これは被験者で「ポーラ」という女性を催眠で誘導していた時、その女性の前世の人格である「マーサ」という人物に対してこう誘導しました。

「あなたがマーサになる前に戻ってください」

この被験者であるポーラとは何度か催眠誘導を行っていたので、この「マーサ」の前の人格はカナダ人の主婦である事は理解していました。その事からその主婦の人格の声に変わる事を期待していたのですが、「マーサ」である被験者のポーラは抑揚ない口調で語り始めたのです。

「私は、、空の、、上にいます。農場の家や屋根が見え、、朝早く、、太陽は、、昇り始めたばかりです。」

この声にホイットン氏は耳を疑いました。ポーラが空の上に居るはずはない。私は何か誘導を間違えてしまったのだろうか。催眠誘導とはプログラミングに似たようなもので、言葉一つを間違えてしまうとあらぬ方法に行ってしまう事があるそうです。そして思い返す中でポーラ(被験者)に対する誘導の言葉を間違えてしまった事に気付いたのです。

本来であれば「あなたがマーサになる前”の人格”に戻ってください」と誘導すべきところを、”の人格”という単語を抜いてしまい誘導してしまったのです。

このミスに気付いたホイットン氏は途方に暮れながらもポーラに尋ねました。
「あなたは空の上で何をしているのですか?」
するとポーラは答えます。
「私は、、、産まれるのを、、待っています、、母のする事を、、、見ています」
ホイットン氏は続けて尋ねます。
「お母さんはどこへいるのですか?」
するとポーラは答えます。
「母は、、、ポンプのところで、、バケツに水を汲んでいます。とても大変そうです、、」
続けてホイットン氏は尋ねます。
「何故大変なのですか?」
ポーラは答えます。
「私の重みで、、お腹に気を付けてと母に言ってあげたい。母体の為にも、私の為にも」
ホイットン氏は聞きました。
「貴方の名前はなんですか?」
するとポーラは答えたのです。
「私の、、、名前は、、ありません」

この後、ホイットン氏はポーラのこれまでの記憶を忘れさせ、被験者を現代の時間へと戻し、この回の退行催眠は中止しました。

この治療の後、ホイットン氏はこのポーラの証言などを落ち着いて検討し、そこでの結論としてポーラが語った記憶とは、前世の人格であるマーサと、更にその前世の人格であるカナダ人の主婦との間の記憶、ホイットン氏はこれを「中間世」と呼びましたが、要はカナダ人の主婦が亡くなり、次にマーサとして生まれるまでの間の記憶を呼び戻したのではないかという結論に達しました。

仏教でいう「本有(いま生きている状態)」「死有(死を通過する状態)」「中有(生と生のはざまの状態)」のうち、「中有」としての記憶を博士は「中間世」として位置づけしました。また博士は独自に輪廻転生についても研究を勧めましたが、そこではチベット仏教を足掛かりとして研究を勧めました。チベット仏教では「中有」の事を「バルト(川の中州の意味)」と呼んでいたので、博士は中間世の事をバルトと呼ぶ事にしたのです。

この退行催眠の誘導のミスをきっかけとして、そこで垣間見えてきたバルトの世界に興味を持ったホイットン氏は、この催眠誘導で前世ではなく中間世についても研究を進めようと、その後、自身の患者の中から被験者を選別し、多くの中間世(バルト)の記録を得る事が出来ました。そしてそこからホイットン氏が見つけた中間世の実像と、それがその後の人格と、その人生にどの様な影響を与えるのか独自に調査を進めたのです。

そこでホイットン氏が導き出したものは、実は大乗仏教の説く輪廻転生観や宿業論にとても親和性のある内容となっていました。

次回はホイットン氏の臨床例について、紹介したいと思います。

【参考資料】
「輪廻転生・驚くべき現代の神話」 J.L.ホイットン著

 

本門の十界の因果について

前回からの続きで、今回は日蓮の言う「本門の十界の因果」について、もう少し考えを進めてみたいと思います。

私が最近思う事ですが、人生とは生れ落ちた時から死に向かい進んで行っている様なものと言っても良いでしょう。この死とは仏教で四苦の一つですが、全ての苦というのはこの死苦から始まっていると言っても良いでしょう。彼の徳川家康は人生について「重き荷を背負って長き道を行くが如し」と言っていましたが、要は生きて要れば様々な苦悩に逢うのは当たり前の事なのです。

◆四教の因果と本門の因果

ここでもう一度振り返って見ると、法華経如来寿量品以前の経典(これは主に天台大師智顗が整理した大乗仏教の時系列に拠ります)では、人々が苦しむのは煩悩と執着によるものが原因だとし、それを断じる為には長い期間、それこそ数限りないほどの生死流転を繰り返す中で、仏道修行に励み、その結果、煩悩を断じつくして悟りを得るしかありませんでした。この事を歴劫修行とも呼びます。ここでは仏とは悟りを開き、その境涯から人々を救済するという立場でした。そして凡夫は愚鈍で煩悩にまみれ、苦しみの中で生きていく人々でしかありません。日蓮はこの事について開目抄の中では以下の様に書いています。

「過去をしらざること凡夫の背を見ず未来をかがみざること盲人の前をみざるがごとし」

要は人々は過去を知らない事は自分で背中が見えない様なものであり、未来を見えない事は盲人(視覚障碍者)が目の前の事が見えていない事の様なものであると。つまり覚者と言われる仏と凡夫の間には明確に境涯の差というのが存在しました。

これを「四教の因果」と呼んでいますが、要は仏になる修行(因行)と、それにより得られる悟り(果徳)という事が、異なる時間の上に存在しますので、「因果異時」とも言われています。

しかし如来寿量品で明かされた久遠実成の言う「本門の因果」は、これとは異なる事を言います。何故ならば、久遠実成の仏は救済者の姿として仏(覚者)とも現れもしますが、私達(凡夫)が煩悩に悩み執着して苦しむ姿も久遠実成の仏の姿であるという事と明かされました。そして修行する姿(因行)の中に悟り(果徳)も同時に具わっているというので、これを「因果俱時」とも呼んでいるのです。

言葉で言い露わされたとしても、これを素直に信じられるでしょうか。

私もそうですが、人は生きている中で様々な事に常に苦悩を感じます。苦悩を感じない場合であっても、仏教では貪瞋痴といい、凡夫の心には常に「貪り」「瞋り」「痴(おろ)か」という三毒が渦巻いていると言われています。そこに悟りが同時に具わっていると言われても、はいそうですか、と信じられるものではありません。

ここで再度、日蓮の言葉を振り返り見てみます。

「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」

ここでは九界、これは私達の日常的な心の働きの事ですが、それをここでは「無始の仏界」と呼んでいますが、その日常的な心の働きそのものが仏の働きだと言い、また仏界、これは私達の心に本源的に具わる悟りの心ですが、それは「無始の九界」と呼んでいますが、その働きは私達の日常的な心の働きの中に実は具わっているというのです。

この事を良く思索していくと、現代の言葉でそれを一番表すのに近しい言葉として「予定調和」という言葉が当てはまるのではないでしょうか。

◆予定調和について

ここで少し予定調和という言葉について説明します。

これは17世紀のドイツの哲学者、ライプニッツが提唱した「予定調和説」に由来します。言葉の意味としては、物事があらかじめ決められた流れに従って進み、予定通りの結末に至るという事を指し示しています。

つまり私達の人生の中で、喜怒哀楽の心の動きを起こす出来事は、実はあらかじめ決められた事であり、人はその決められた流れに従い進んで行き、人生は決まった結論に行く付くという事なのです。

これは私自身、今から数年前に気付いた事なのですが、私自身、五十歳を過ぎた時にふと過去の来し方を振り返った時、それぞれの年代で巡り合った出来事の中で、時には喜びを感じ、また時には落ち込み、その中で怒りを感じながらも、時々に決意しながら目標を持って生きてきました。しかしふと今の自分の立ち位置、これは社会の中でもそうですが、家族のつながりや周囲の人間関係を見た時に、それぞれ時に応じて必要な人と必要なタイミングで巡り合い、それらがつながりあう中、現在の自分に至っている事に気付きました。

要は人生というのは、実は大きな流れがあって、気が付いた時にはその流れの中で生きて来た事を感じたのです。

「何か様々な事を考えて生きてきたつもりが、実は人生の中には”流れ”があって、実はここまで生かされて来たのではないだろうか」

それが私の実感でした。そこから振り返り考えた時、実は人生とは「予定調和」そのものではなかったのかと感じたのです。

◆予定調和と本門の因果

先に紹介したドイツ哲学者のライプニッツは、この予定調和の背景には「神によってあらかじめ調和するように設計された」という考えがありました。

しかし当然の事ですが、仏教では西欧の言う「神」という概念は存在しません。ただし、そこに「久遠実成の仏」があったとしたらどうでしょうか。

「久遠実成の仏」とは自身の外に存在するのではなく、自身の心の本源の事を指します。そこから考えてみると、人生の全ての出来事を決めているのは、実は自分自身である事。またこの仏は何も自分だけの存在ではなく、世界に生きとし生ける有情全体の心の本源であり、それが予定調和の姿で心を共有する全体の中に於ける個々の人生をあらかじめ決めていたとしたらどうでしょうか。

自分自身の人生を決めているのは、自分とは別に存在する神ではなく、実は自分自身である。そしてここでいう自分自身とは、その心の根源であるという事。

近年、心理テストという話題がありますが、そのテストで判る事は、実は私達の心とは日常意識の中では感じ取れない無意識層の中で、計り知れない動きをしているという事です。良くありますよね、心理テストをした結果、自分の心の動きには、実は日常意識しない事が隠されているという経験。

それは九識論では末那識と呼ぶレベルの話ですが、久遠実成の仏というのは、九識論で言えば阿摩羅識という、末那識の更に深層、記憶の更に奥底にあるとされています。

実はこの「予定調和」の話というのは、きわめて難しい話であり、短絡的に理解されてしまうと、そこから危険な考え方が派生してしまいます。だから安易に話する事も難しいのですが、もう少しだけ続けていきますので、興味のある方はもう少しお付き合いください。

(続く)