
10月に入り、ようやく天候の方も良い感じになってきました。
とは言え、日本周辺には3つの台風があって、その影響で先日は太平洋沿岸でも大変だった様ですね。小田原では川の水が逆流し、街中に水があふれ出てしまい、高波の影響もかなりあったとニュースで観ました。
正直、この状況もそうですが、それ以外でも今年に入り発生した集中豪雨の被害を見ても、アラカンの私がこれまでの人生の中で、見た事のない景色を多くみる事となっています。
これはやはり地球温暖化をはじめとする地球規模の環境変化によるものなんでしょう。
「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。」
(如説修行抄)
私が男子部で活動を始めた40年前、先輩からはこの御書を教えられ、創価学会の思想が広がって行くならば、この世界は平和で安穏な世界になる。広宣流布とはそういう世界を作る事なんだと教えられもしましたが、結果、四十年経った現在、日本と世界はどうなったのでしょうか。いやいや、日本や世界という話し以前に、創価学会も瓦解を始め、公明党の位置づけすら昔とは全く異なった存在となってしまいました。
ネット上のXでは、今の創価学会男子部員のPOSTで以下のものがありました。

まあこの男子部にしたら、未だに創価学会の掲げる希望を信じ、そこに自身の人生をかけているからこそ、こういった発言もすると思います。
しかしそんな幻想によって希望を語ったとしても、もう創価学会は時代の役割も負えたのですから、これから再起する事は出来ないでしょう。あるのは瓦解の速度を速めながら、日本国内にある新興宗教の一つとして、細々と続いていくのが精一杯なのは、現状を冷静にみれば解ります。
という事で、この創価学会の衰退について、今回は少し私の観点から考えている事を書いてみます。
◆衰退は何時頃から
私が未来部(中学生から高校生時代)の時、まだ当時の創価学会には未来があったと思います。
当時の支部では中等部や高等部で二十名を超えるメンバーもいて、小学生を含めると百名近いメンバーが未来部として在籍していました。当時の支部総会は地元の公会堂を借りて行いましたが、そこに支部の皆さんが集まって、未来部でも出し物を行い盛り上げていた事は今でも記憶に残っています。
まあ組織割の規模として考えると、当時はいまの2~3支部が一つの支部ではありました。
この当時、未来部には男子部の部長や支部の男女青年部の担当者もいて、仲良くワイワイガヤガヤとやっていました。
そして男子部になり活動を始めた頃も、男子部の統監は支部では100名前後あって、活動家も20名から30名はいる支部もざらにありました。私の支部は活動家も少なくて10名前後でしたが、その後に組織的にも盛り上がり、20名を超える活動家もいたのです。
私が支部の男子部長の時代。
統監は90名ほどでした。各地区には地区リーダや地区副リーダ、そして班長もいましたので、常時の活動家は10名前後の規模でした。そして大きな会合で結集を行うと、だいたい25~6名は参加してくれたものです。(統監の約1/3ですね)
また本部長時代には、統監が500名ほどいましたが、やはり大きない会合になると、200名以上は参加して貰っていました。
ただ流れが変わり始めたのは、やはり第二次宗門問題のあたりからではないでしょうか。
第二次宗門問題で、創価学会は「創価ルネサンス」という事を打ち出して、当時は御本尊授与も出来ないので、「会友」という名目で今でいう「友好拡大」に取り組んでいました。
この打ち出しの当時、私は部長でしたが部員や地区リーダの友人なども、気軽に支部の活動者会に参加してくれたり、支部総会の時には、企画モノについても一緒になって考え、制作も一緒に参加してくれたものです。ただ当時、壮年部や婦人部の一部からは「友人が来てくれるなら折伏すべきだろう!」なんて風潮もありましたが、当時は会員とか非会員の垣根にはあまりこだわらず、自分達の男子部の行動に共感してくれたら一緒にやろうというスタンスでしたので、そういった外野の言葉は一切無視も出来たのです。
当時は地域や社会問題を扱い、地域内でそういった情報を発信する「オープンハウス大学校運動」という事をやっていたので、そこに友人も共感し、参加してくれたと思います。
しかしそれから少し経って。
池田名誉会長が「日寛師の御本尊を授与出来る様になったよ、おめでとう」なんて事が言われ、そこから一気に組織の雰囲気が変化しました。
それまで垣根無しに友人も来てくれてはいましたが、その友人に対して「御本尊様を頂こう、創価学会に入会しよう」というスタンスに切り替わった途端、友人は創価学会の場には来なくなりました。
また幹部についても、評価軸として「御本尊授与でどれだけの成果を出せるのか」という事にシフトし、要は先祖帰りの様な雰囲気になっていったのです。
当時、私は部長という立場でしたが、同じ本部内の部長も、この組織の様変わりには不安を感じましたし同様の危惧を持っていました。要は組織の境目なく、理解・共感層を増やす事が「オープンハウス大学校運動」の主旨で活動をしていましたが、そこから明確に「内部・外部」と立分けする様になり、そうなるとそれまで共感をして来てくれていた友人は直ぐに創価学会からは離れて行ってしまのではないか。また組織も成果主義に逆戻りをするのではないかという危惧でした。
その後、組織全体として「成果(この場合では御本尊授与の数)」を求める方向にシフトしたのですから、現場の雰囲気は一変したのを覚えています。
要は「先祖帰り」ですね。
この御本尊授与ですが、当時は「入会基準の厳格化」という話しもあって、表向きはそれまでの「成果主義」を排する方向も打ち出しにがありました。幹部が仕切りにいっていたのは「昔とは違う」という事だったのです。
でも時間の経過と共に「成果(数字)を追う活動」に拍車がかかり、この厳格化のルールも形骸化していきました。
例えば座談会にはしっかり参加している事、入会に際しては壮年本部長の面接をしっかり受ける事など、決まり事は以前とは異なる事が決められていました。
しかしこの「入会基準の厳格化」も形骸化してしまい、座談会は友人宅に幹部同行で話す場を座談会と呼び、本部長面接と言っても、例えば会館で行われる本部幹部会同時中継の終了後に、入会者を本部長にあわせらだけで面接に代わりにするなど、まあとにかく成果を上げさせる為、それが軸となってズレていったのです。
この状況の中で、各組織の中では、それまで活動家だった班長や地区リーダがポツポツと消え始める事が増えて行きました。しかしそれでも折伏戦を軸として、人材を育成するというスタンスで組織は動いていましたので、そこそこ新しい活動家も出て来たりしていました。だからこの段階では組織が衰退するという事は、あまり実感としては感じてもいませんでした。
◆選挙への取り組み
この御本尊授与の変化(破門で御本尊流布が無くなり、創価学会の御本尊の授与が始まるまで)の時期と平行して、政治の世界では公明党が前進的解党され、新進党に合流し、そこで55年体制の崩壊と、あらたな連立政権が樹立するという事も、日本の社会の中で起きていました。
この当時は「もう俺達は選挙戦という活動はやらなくても良いんだ」と男子部の中でも喜んだものですが、結果、新進党も長続きはせずに解党してしまい、結果、公明党が再結成されたのです。またその後に「自民党は創価学会に詫びを入れてきた」と良い、自自公連立政権から自公連立政権へ移行しました。
こうなると、それまでの選挙戦は公明党だけ支援だったのですが、ここに自民党の支援という話しも組織内に出てきました。この事から必然的に選挙に関わる事も増えていったのです。
「選挙は組織の消耗戦である」
これは私が男子部になった頃から、多くの先輩が語っていた事なのですが、その消耗戦である選挙戦が、一時期は御本尊授与の代わりに「組織の引き締め」で行われる様になっていきました。その後、御本尊授与が再開した後も、この選挙への取り組みは創価学会の中で日常的な活動として定着もしていったのです。
これは私が男子部で県主任部長になった時の話です。
とある支部の活動者会に担当幹部で呼ばれ参加をしました。そこで地区リーダーからは、年金への取り組みで自分は公明党の政策に賛同できないので、今回の選挙戦は活動しません、という話しを受けました。
私は政治信条の自由は大事な人権の一部でもあるので、それで問題無いと言う話をし、でも日々の勤行だけはしっかりやれよ、と話をして終わりましたが、その日の深夜、県男子部長から連絡がありました。それは私が参加した支部の部長からのクレームが県男子部長の処へ入ったとの事。
要は部長はその地区リーダを、公明党支援にひっくり返してくれる事を期待していた様ですが、意に反して私が地区リーダの言を受け入れ、結果として支部内にもそんな雰囲気が広がってしまうでは無いか、という事だったそうです。
確かに部長は本部や区からは、選挙戦では数字で詰められます。支援の数字が上がらなければ部長は常に責め立てられますので、その思いは理解できます。しかし政治とはあくまでも個人の政治信条に基づくもので、それをひっくり返す役割は、本来は公明党側の問題であって、そこが信仰とオジヤ状態になっているのがおかしい話なのです。
信仰と政治信条は違う。
だから諸先輩は「選挙戦は消耗戦だ」と呼んでいた筈なのに、今ではその選挙戦で票を集める事自体が、人口活動の中軸になっているのですから、組織は疲弊をしてしまったのではないでしょうか。
◆教義を軽視した姿勢
あとは教義というものを組織的に軽視した事も、組織の衰退につながって居ると思います。
私が男子部の頃には、「教学は信心の背骨だ」とよく言われました。
だから会合には御書全集を持ち歩き、会合の合間には先輩幹部を中心に御書を読みあったものです。また私が部長になった時、先輩からは「思索の時間は必ず作れ」と言われました。要は活動方針が出た時に、部長はその活動方針を御書と池田先生の指針を以って、しっかりと方向性を語れるだけの力を付けなければならないと、良く言われたもので、私も会合前には御書を読みながら話す内容を考えたものです。
しかし私が区男子部長の頃でしょうか。
東京巣鴨の戸田記念講堂で「首都圏男子部幹部会」が開催され、私は参加しました。
その時の担当幹部は、後に理事長となり消えて行った正木正明氏(当時、副会長)でした。その会合の幹部指導の中で正木氏が語ったのは、要旨としては以下の内容でした。
「最近、池田先生は”この先の100年”という言葉を良く語る。それを私なりに思索をして解った事は、この先も創価学会の組織は永続させなければならない。そして世界の宗教を見た時、多くは指導者が亡くなった後に分裂しているが、それは教義論争で分裂している。だから池田先生亡きあとを考えた時、大事なのは師弟であり教学では無い」
だいたいこんな内容を語っていました。
また正木氏は先の記事でも紹介した様に、とある大きな壮年部の会合では、日蓮大聖人の御書は難しいから無理して学ばなくても良い。池田先生のスピーチを学べば充分である。そんな事も指導していました。
そしてそれ以降、組織内では「師弟不二」が全面的に語られる様になり、当時まだ同時中継に出席していた池田氏も「仏法の究極は師弟なんです」と強い言葉で指導をしていたのです。
その為もあってか、創価学会は教学を学ばなくなっていきました。
確かに創価学会には教学試験というのがあり、その度に基礎教学を学ぶ事はあるでしょう。しかしそれが実生活にリンクして語られる事は無くなりました。またこの実生活にリンクするというのは信仰体験の事を云っているのではありません。この事について日蓮は述べています。
「法華経に云く「皆実相と相違背せず」等云云、天台之を承けて云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」等云云、智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」
(減劫御書)
法華経に説かれている内容はけして世間から遊離したものではなく、社会の動向(一切世間の治生産業)も、それに即して説かれているのですから、そこから学びえる事も多くあるのです。
しかしこの様に教学を学ばなくなった創価学会は、組織内の動きが社会と遊離し始めて行ったのかもしれません。
最近、何気に私は地元の地区部長と話す機会もありましたが、地区部長に壮年部の人材が消えている現状を聞くと、私が男子部時代に活動していたメンバーも、今では組織に顔を出さなくなっている事、そしてその理由として幹部が壮年部員の疑問に対して的確に回答できていない現状も聞きました。
要は近年になり、選挙ばかりの活動や形骸化した活動を見て、壮年部が幹部に疑問をぶつけるのですが、当の幹部がその疑問に答えられるだけ当意即妙な答えが出来ず、「池田先生との約束」とか「池田門下ならば」を連呼するので、辟易してしまったようなのです。
これも創価学会が教学を軽視した結果としての姿なのかもしれませんね。
まあ様々思う事を書いてみましたが、創価学会はそもそも「ボトムアップ組織」ではありません。創価学会はどこまでいっても「トップダウン」の組織文化が根付ています。
本部幹部会でよく池田氏は「下から上を変えていけ」とハッパをかけましたが、実際に現場で意見を言っても採用される事はありません。何故なら創価学会の組織とは「数字至上主義」の文化が根付いていますので、数字に貢献していない者の意見を採用するだけの器量が無いのです。
他にも様々な要因があると思いますが、私が創価学会の衰退について思う処を少し書いてみました。要は途中で変革するタイミングはあったのかもしれませんが、創価学会としてそのタイミングを逸してしまったので、もう戻る事はないでしょう。あとは瓦解の速度を速めながら、昭和の時代に出来上がった新興宗教の一つとして、社会の中で残滓が残るだけと私は思っているのです。