
前回からの続きで、今回は日蓮の言う「本門の十界の因果」について、もう少し考えを進めてみたいと思います。
私が最近思う事ですが、人生とは生れ落ちた時から死に向かい進んで行っている様なものと言っても良いでしょう。この死とは仏教で四苦の一つですが、全ての苦というのはこの死苦から始まっていると言っても良いでしょう。彼の徳川家康は人生について「重き荷を背負って長き道を行くが如し」と言っていましたが、要は生きて要れば様々な苦悩に逢うのは当たり前の事なのです。
◆四教の因果と本門の因果
ここでもう一度振り返って見ると、法華経の如来寿量品以前の経典(これは主に天台大師智顗が整理した大乗仏教の時系列に拠ります)では、人々が苦しむのは煩悩と執着によるものが原因だとし、それを断じる為には長い期間、それこそ数限りないほどの生死流転を繰り返す中で、仏道修行に励み、その結果、煩悩を断じつくして悟りを得るしかありませんでした。この事を歴劫修行とも呼びます。ここでは仏とは悟りを開き、その境涯から人々を救済するという立場でした。そして凡夫は愚鈍で煩悩にまみれ、苦しみの中で生きていく人々でしかありません。日蓮はこの事について開目抄の中では以下の様に書いています。
「過去をしらざること凡夫の背を見ず未来をかがみざること盲人の前をみざるがごとし」
要は人々は過去を知らない事は自分で背中が見えない様なものであり、未来を見えない事は盲人(視覚障碍者)が目の前の事が見えていない事の様なものであると。つまり覚者と言われる仏と凡夫の間には明確に境涯の差というのが存在しました。
これを「四教の因果」と呼んでいますが、要は仏になる修行(因行)と、それにより得られる悟り(果徳)という事が、異なる時間の上に存在しますので、「因果異時」とも言われています。
しかし如来寿量品で明かされた久遠実成の言う「本門の因果」は、これとは異なる事を言います。何故ならば、久遠実成の仏は救済者の姿として仏(覚者)とも現れもしますが、私達(凡夫)が煩悩に悩み執着して苦しむ姿も久遠実成の仏の姿であるという事と明かされました。そして修行する姿(因行)の中に悟り(果徳)も同時に具わっているというので、これを「因果俱時」とも呼んでいるのです。
言葉で言い露わされたとしても、これを素直に信じられるでしょうか。
私もそうですが、人は生きている中で様々な事に常に苦悩を感じます。苦悩を感じない場合であっても、仏教では貪瞋痴といい、凡夫の心には常に「貪り」「瞋り」「痴(おろ)か」という三毒が渦巻いていると言われています。そこに悟りが同時に具わっていると言われても、はいそうですか、と信じられるものではありません。
ここで再度、日蓮の言葉を振り返り見てみます。
「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」
ここでは九界、これは私達の日常的な心の働きの事ですが、それをここでは「無始の仏界」と呼んでいますが、その日常的な心の働きそのものが仏の働きだと言い、また仏界、これは私達の心に本源的に具わる悟りの心ですが、それは「無始の九界」と呼んでいますが、その働きは私達の日常的な心の働きの中に実は具わっているというのです。
この事を良く思索していくと、現代の言葉でそれを一番表すのに近しい言葉として「予定調和」という言葉が当てはまるのではないでしょうか。
◆予定調和について

ここで少し予定調和という言葉について説明します。
これは17世紀のドイツの哲学者、ライプニッツが提唱した「予定調和説」に由来します。言葉の意味としては、物事があらかじめ決められた流れに従って進み、予定通りの結末に至るという事を指し示しています。
つまり私達の人生の中で、喜怒哀楽の心の動きを起こす出来事は、実はあらかじめ決められた事であり、人はその決められた流れに従い進んで行き、人生は決まった結論に行く付くという事なのです。
これは私自身、今から数年前に気付いた事なのですが、私自身、五十歳を過ぎた時にふと過去の来し方を振り返った時、それぞれの年代で巡り合った出来事の中で、時には喜びを感じ、また時には落ち込み、その中で怒りを感じながらも、時々に決意しながら目標を持って生きてきました。しかしふと今の自分の立ち位置、これは社会の中でもそうですが、家族のつながりや周囲の人間関係を見た時に、それぞれ時に応じて必要な人と必要なタイミングで巡り合い、それらがつながりあう中、現在の自分に至っている事に気付きました。
要は人生というのは、実は大きな流れがあって、気が付いた時にはその流れの中で生きて来た事を感じたのです。
「何か様々な事を考えて生きてきたつもりが、実は人生の中には”流れ”があって、実はここまで生かされて来たのではないだろうか」
それが私の実感でした。そこから振り返り考えた時、実は人生とは「予定調和」そのものではなかったのかと感じたのです。
◆予定調和と本門の因果

先に紹介したドイツ哲学者のライプニッツは、この予定調和の背景には「神によってあらかじめ調和するように設計された」という考えがありました。
しかし当然の事ですが、仏教では西欧の言う「神」という概念は存在しません。ただし、そこに「久遠実成の仏」があったとしたらどうでしょうか。
「久遠実成の仏」とは自身の外に存在するのではなく、自身の心の本源の事を指します。そこから考えてみると、人生の全ての出来事を決めているのは、実は自分自身である事。またこの仏は何も自分だけの存在ではなく、世界に生きとし生ける有情全体の心の本源であり、それが予定調和の姿で心を共有する全体の中に於ける個々の人生をあらかじめ決めていたとしたらどうでしょうか。
自分自身の人生を決めているのは、自分とは別に存在する神ではなく、実は自分自身である。そしてここでいう自分自身とは、その心の根源であるという事。
近年、心理テストという話題がありますが、そのテストで判る事は、実は私達の心とは日常意識の中では感じ取れない無意識層の中で、計り知れない動きをしているという事です。良くありますよね、心理テストをした結果、自分の心の動きには、実は日常意識しない事が隠されているという経験。
それは九識論では末那識と呼ぶレベルの話ですが、久遠実成の仏というのは、九識論で言えば阿摩羅識という、末那識の更に深層、記憶の更に奥底にあるとされています。
実はこの「予定調和」の話というのは、きわめて難しい話であり、短絡的に理解されてしまうと、そこから危険な考え方が派生してしまいます。だから安易に話する事も難しいのですが、もう少しだけ続けていきますので、興味のある方はもう少しお付き合いください。
(続く)