自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

はじめまして

はじめまして。

 

Hatena Blogを始めました、斎藤単己と言います。

単己とは法華経に「況んや復単己にして遠離の行を楽えるをや。」(従地涌出品第15)ある言葉から引用させてもらいました。

私は二十代から四十代までの四半世紀近く、創価学会の中で活動をしてきましたが、四十代半ばで組織活動から足を洗い、現在に至っています。

人生をそろそろ振り返りが必要な年齢になった今、別に組織で徒党を組んで生きていかなくても良いし、やはり自分の人生、考え思う事は自由でありたいと考えたからです。

ここでは創価学会で経験した事、学んだこと、そしてそこからの自分自身で考え思った事について書き連ねていきたいと思っています。

本ブログのカテゴリーとして以下の様に分類しています。

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もしお時間がある方がいたら、お付き合い頂けたら幸いです。

 

これからもよろしくお願いします。

 

ディスクロージャー・デイを見てきました

早いもので10月になってしまいました。

そういえば東京では2か月間、雨模様が連続していると言われています。確か先週あたりは一度、天気も持ち直したと思いましたが、夕方に少し雨が降ったので、この連続記録となったそうです。

今年の天候は例年のものとは明確な違いがあると感じています。

例年であれば、この時期には西から東へと天気は動き、移動性高気圧と低気圧が交互に来ることで、天気はある程度周期的に変化するものと思いますが、先々週もそうだし、今週もそうですが、南方から台風が北上し、それが日本付近に停滞している秋雨前線を刺激して、この様な天候不順を起こしているのではないでしょうか。

この要因は、太平洋の東側で発生している「スーパー・エルニーニョ」と、今年はモンスーンの季節風も強くなっていると言われていますので、その影響なんでしょうか。

さて、そんな事を思いながらの日々ですが、今回は昨日封切りされた、スティーブン・スピルバーグ監督の作品「ディスクロージャー・ディ」を見てきましたので、その事について少し書いてみます。

偶にはこんな話題も良いかと思いましたので、お時間のある方はお付き合いください。

◆ディスクロージャー・ディについて

この映画は当初、7月公開を予定されていましたが、アメリカの公開スケジュールの変更もあって延期されていました。

ざっくりとした内容(ネタばれしないレベル)で映画の中身を言うと、大枠以下のストーリー展開となっていました。

 ・サイバーセキュリティ専門家ダニエルが、政府と秘密企業が隠してきた 地球外生命体との
  接触記録 を盗み出す

 ・気象キャスターのマーガレットが突然「未知の言語」を話し始め、能力が覚醒

 ・二人は巨大組織に追われながら、世界に真実を開示する放送(Disclosure Day) を行う

 ・70年以上隠されてきたUFO/UAPの機密情報が全世界に公開される

本年はアメリカのトランプ大統領が、UFO(UAP)と異星人の情報公開をするのではないかと話題になっていましたので、それにあわせて一部界隈では、この映画はかなり注目をされていました。

そんな前情報なんかもあったので、私も封切り当日、20:40上映開始の映画を見てきましたが、一言で言えば「スティーブン・スピルバーグの映画らしい内容だ」と感じました。要は「未知との遭遇」+「E.T」みたいな内容で、この過去の映画をミックスして「UFO(UAP)の情報公開」をスパイスに組み入れた内容で、この映画は一度観れば充分で、二度観たいかと言われたら、別に良いかなという感じでした。

ただ幾つか興味深い内容もあって、ストーリーの中で修道女が出て来るのですが、その修道女の女性は、異星人が存在する情報を公開すると、人々の信仰が破壊されると述べたシーンもあったのですが、その修道女の上の人がその修道女に、神が造り出したこの広大な宇宙に、その創造物が人類だけであるはずが無いでしょうと諭すシーンがありました。

これは以前によく言われていた事ですが、現在の世界の基本的な仕組みは、キリスト教がベースとなっていて、そこでは宇宙に知的生命は人類しか存在しない事が前提となっていると言うのです。そしてもし人類以外の知的生命体が存在したのであれば、全世界の経済的な仕組みが崩壊する危険性もあるというのです。

しかし映画の中で、それとは異なる内容を修道女に語らせているのは、中々興味深いと思いましたし、現在の人類の中では異星人の存在というのは、否定的では無くなってきている事を描いたものと感じました。

まあ2014年にフランシスコ教皇が、異星人の洗礼に言及したという事もありましたからね、欧米でもかなりこういう事は浸透してきているのでしょう。

また終盤では「ディスクロージャー」として、様々なUFO映像、異星人映像などが流されましたが、もしかしたら一部、あの映像の中にはリアルなものもあったのかもしれませんね。

でもこの異星人周辺の事を30年間ほど見ていると、この映画の中では純粋無垢で、人類に対して極めて好意的な異星人の姿が描かれていますが、現実にはそれほど綺麗ごとでは済まない話だと感じているので、ちょっとその点でシラケを感じてもしまいました。

◆ディスクロージャーについて

ディスクロージャーとは「情報公開」の事を指す言葉です。

私が子供の頃には、UFOとか宇宙人の話題は、どちらかというとミステリー的な話題で、この広い宇宙には人類以外にもいろんな知的生命がいて、かれらが地球を訪れているという様な、まだ夢のある話題でした。

しかし私が二十歳頃なので、いまから四十年程前あたりから、この件にはアメリカ政府や軍が絡んでいるという話題が主流になってきたのです。これは知っている人はいるかもしれませんが「MJ-12(マジェスティック・トゥエルブ)」という話しです。

要は政府には裏の組織があって、その組織がこういった情報を隠蔽・統制しているという話しです。

要はそれまで夢のある話題であり、バラエティー番組的な話題であったものが、この時期になると、何やら政府や軍も関係した、陰謀論的な話題へと変化していったのです。

そしてその中では、例えばアイゼンハワー大統領が異星人との間で条約を締結、これは「グリーダ条約」と呼ばれていて、その条約の中では、異星人から高度の技術力を提供される見返りに、一部の人類を異星人が誘拐して実験と調査に利用する事を許容するというものだと言われています。

まあ真偽の程は定かではありませんが、これについては状況証拠の様な出来事は幾つもあって、その上で語られていたりしました。

こういった事から、政府が秘匿している情報を公開しろという話しあり、ディスクロージャー(情報公開)という事にもなっているんですね。

ただ私がこのディスクロージャー(情報公開)という事で、一番最初に思い浮かぶのは、アメリカの救命医であるスティーブン・グリア氏です。

スティーブン・グリア氏は1955年にアメリカのノースカロライナ州に生まれた人で、元々は救急医として、ノースカロライナ州にあるカルドウェル・メモリアル病院の救急医療長として勤務していました。

しかしグリア氏は青年期に異星人に遭遇した体験をした事で、救急医を辞め、現在はUFO情報公開活動に転じています。

彼の主な活動は、1990年に立ち上げたThe Disclosure Project(ディスクロージャー・プロジェクト)と、CSETI(Center for the Study of Extraterrestrial Intelligence-異星人コンタクトプログラム)があり、特筆すべきは2001年5月9日に、ワシントンDCのナショナル・プレスクラブで大規模な記者会見を行った事です。

そこには軍人や政府関係者や情報機関職員など20名以上が証言台に立ち、「地球外知性体の存在」「クラフトの逆行分析」「政府の隠蔽」の事について証言しました。

この記者会見は世界で10億人が視聴したとも言われています。

この会見模様はYoutubeにも残っていましたので、以下に掲載しておきます。

www.youtube.com

この記者会見ですが、ワシントンのナショナル・プレスクラブは大統領の会見にも使われた様な場所にも関わらず、アメリカの主要メディア(MSBCやCNN、ABCなど)では一切取り上げる事をしませんでした。ちょっとニュースで触れただけで、その内容についてはけして国内でも取り上げすらしなかったのです。

結果、この様な活動について多くのアメリカ国民には知られる事なく、当然、日本を始めとして世界でも大きな話題になる事はありませんでした。

しかし今年になり、アメリカのトランプ大統領の命令で、国防総省により以下のサイトが公開され、アメリが軍の保有しているUAP情報が公開され始めています。

www.war.gov

しかしこれでアメリカ政府が異星人やUFOの存在を公式に認めたかと言えば、UAPとは「未確認空中現象」の事であって、まだ異星人とか、その異星人の乗り物としてのUFOという事では認めていない事となっています。

あくまでも「摩訶不思議な空中現象はあるよね」というレベルで認め、その情報を公開しているという事に留まっているのです。

しかし1950年代に「プロジェクト・ブルーブック」という機関がアメリカ空軍の中に設立され、その結果をコンドン委員会では「UFO現象は国防上の脅威ではない」と締めくくり、以降、アメリカ軍や政府は調査や止めたという事は、実は真っ赤な嘘であった事がこれで判明したのです。

◆ディスクロージャーは可能なのか

ここからは私の私見の話をします。けして信じて欲しいという事ではなく、今の段階で私が得ている話の中での事です。

軍事の持つテクノロジー、これは主にアメリカを指していますが、おそらくそれは世間で一般公開されているよりも三十年以上先のレベルを進んでいると言われています。

例えばこのインターネット。これは私が1980年代の頃、知人でAT&Tで仕事をしている人から概要は聞いていました。当時はアーパネット(ARPA.NET)と言われ、サーバー分散方のネットワークを構築しているという話しを聞いていました。でも概要は解りましたが、具体的な事は今一理解出来なかった事を覚えています。

しかし東西冷戦が終了した事を受けてでしょうか、1990年代にはこのネットワークが一般公開され、そして1995年にリリースしたOSである「Windows95」では、誰もがこのインターネットを利用できる様になったのです。とは言え、当時はナローバンド(低帯域)のネットワークしか国内には普及しておらず、唯一次世代のネットワークとして期待をされていたのはISDN回線だけでした。

しかし2000年代にADSL回線が普及し始めると、このインターネット利用は一気に拡大を始めたのです。またそれに合わせる様にFTTH(Fiber To The Home-光回線)の利用も普及し始めました。また基幹ネットワークの高速化に合わせる様に移動体通信の高速化も進み、いまでは5G(第5世代)となり携帯端末もスマートフォンが主流になった事から世界的にこのネットワーク環境は変化し、今では当たり前の様に皆が利用しています。

これは軍事技術の民間転用の例ですね。

これと同じ様に、恐らくアメリカ軍を中心として、最先端にある技術力は恐らく私達の認知するレベルを超えたものを持っていると思われます。

そしてこの技術の高度化の一部には「異星人のテクノロジー」が存在している事が、まことしやかに囁かれています。

要は「リバース・エンジニアリング」により取得した、高度技術力ですね。

そしてこういった高度な技術力の公開も、実はディスクロージャー・プロジェクトでは求められてもいるのですが、こういった事は当然、一切語られる事すらありません。

ではそれを公開させるには、政府(この場合、主にアメリカ政府を指しますが)を叩けば出て来るのかと言えば、恐らくこういった技術力に関する情報は、今はアメリカ政府が持っているのではなく、恐らく多国籍軍事産業が持っていると言われています。(ロッキード・マーティン、ボーイング、ノースロップ・グラマン、ゼネラル・ダイナミクス等)

もし情報を国家機関が持っている場合、法律により公開を求められた場合には、公開をしなければならなくなりますが、これが多国籍企業の場合には「企業上の機密事項」という事で保護されますし、別に一つの国家の枠には収まっていませんので、機密情報の保護には国家よりもこの多国籍企業の方が向いているのです。

そういう事からも、実際に本当の意味でのディスクロージャーというは、まだまだ起きないのではないでしょうか。

 

そうは言いながら、今回の様な映画を見ると、こういった機密にされている情報が公開される事には興味も湧きますが、恐らくいま機密事項として扱われている情報は世界に出た場合、その情報は何も耳障りの良い話ばかりではなく、恐らく普通の人達には拒絶される情報も多く含まれている事も想定されますので、やはり難しいのではないか。

いや、そもそも多くの人達にとっては、常識との乖離が激し過ぎるので、受け入れられる事も無いかもしれない。

そんな事を、今回の映画を見ながら考えてしまいました。

 

創価学会の教学について

これまで私が思索し考えている事をブログに書いてきましたが、今回は教学について少し思うことを書かせて頂きたいと思います。

◆教学と私

私が教学、いわゆる日蓮仏法に触れたのは高校生の時、任用試験の勉強会の時でした。とは云いながら中学生の頃に、自宅にあった「教学研究」(東洋哲学研究所)を読みふけっていましたので、その基礎的な事を懇切丁寧に教わったのが高校生の頃だったのです。

当時の創価学会では、高校生(高等部)でも活動家は御書全集を持ち歩き、例えば高等部員会でも御書を開き拝読をしていましたが、御書は鎌倉時代の文言なので、高校生で古文を学んでいてはいたとはいえ、中々難解なものでした。

任用試験の後、男子部で青年教学3級を受け、そこで五重の相対や宗教の五綱を学び、その後、部長時代に青年教学2級を受けましたが、この時には一度、不合格となり、その後にリベンジで合格できたのです。

そんな感じなので青年教学1級は、区男子部長時代に受けて合格しましたが、当時の青年教学1級では面接試験があり、面接の場で御書のページが指定され、その場で通解と御書の意義を問われるので、かなり冷や汗モノでした。

青年1級に合格していたので、組織の決まりとしては、壮年部に移行した時、教授認定の面接がありましたが、その時は私も広宣長でした。この当時の私は創価学会の在り方に疑問を覚えていて、その事で先輩(支部長)からの地区部長の打診をされた際にこの疑念の一端を伝えたところ、先輩からは「お前、イラネ!」と言われていたので、もう学会活動はやっていませんでした。

面接時に当時の区長からは「お前、そろそろ学会活動にしっかり取り組め!」と言われましたが、私は「そのうちやる様になるかもしれません」と答えた処、今に至るまで教授の認定に関しては音沙汰なしとなっています。

ただこれ以外に、私の男子部時代は創価班の広宣部をしていましたので、そこでは様々な御書を読み込みながら、時によっては富士宗学要集を読み込んだり、あとは日蓮正宗の宗史に眼を通していたりしました。そこでは日蓮の歴史や文字曼荼羅の意義、また広宣流布の意義についても男子部内で様々な議論をしていましたので、其れ等が今の私の基礎になっています。

また創価学会の組織を離れ、自分自身のこれからの生き方を得ようと、様々な書籍を読み込んだり、日蓮に関する事を調べなおしたり、仏教の考え方についても幾人かの人達と語るなかで、創価学会では知る事が出来なかった事も教えて頂く事が出来ました。

◆創価の教学への姿勢

私は広宣部で法華講や妙観講、また顕正会等と多くの対論を行って来ましたので、やはり論理の一貫性を持つための学び方を主体にしてきた傾向が強くありました。これ、一言で言えば相手の発言の矛盾を突き、その矛盾点を明らかに示す文献としての教学を学ぶというもので、いわば「対論の為の教学」だったのです。

これは言葉の所在場所(原典)や、その言葉の前後の整合性については詳しくなりますが、その言葉の本来求めている意義については理解を深めるのが出来ないものです。

創価学会の活動を離れた当初、私は「理の通じない硬直化した組織、またいつも何かしら常に問題が発生する原因は何なのか」を考えた時、やはりそこには長きに亘る創価学会としての在り方から醸成されてきた組織文化、またそういう組織文化を作り出してきた思想(教学)に問題の根っ子があると考え始めていたのです。

活動を離れた時、幾人かの活動を止めた先輩と語り合った際、多くの先輩が主張していたのは「池田先生の御心を忘れ、幹部が官僚化した事が問題だ」という事でしたが、私は「そもそも創価学会の思想性がおかしかったのでは?」と考え始めていたので、そこは活動を止めた先輩とは意見が別れた処です。

またこの当時、私は創価学会の教学に対する姿勢に対して、疑念を持ち始めていました。

当時、創価学会の中では「師弟不二」という事が盛んに言われ始めていました。これは私が区男子部長時代、正木(当時)副会長が「池田先生の亡きあと師弟が大事になる。宗教とは指導者が亡くなると教義論争が起きて、分裂するという歴史を繰り返してきた。だから教学ではなく師弟こそが大事なのである」という指導をしていました。そしてその指導が組織内に広がり「師弟不二」という事が、盛んに組織の中で語られ始めたのです。またそれを後押しする様に、池田氏も本部幹部会の同時中継で「師弟こそ仏法の究極だ」という事をスピーチしていました。

これを同時中継で聞いた時、私の中には大きな違和感を覚えました。何故なら私が広宣部の時、法華講や顕正会に対しては「依法不依人(法に依って人に依らざれ」が根本だと主張していました。これは涅槃経にある一節で、要は仏法はあくまでも経典や御書に書かれている事を中心にすべきであり、例え師匠であろうと経典や御書に反した指導に従ってはならないというものです。

しかし師弟不二とは、この「依法不依人」の原則を蔑ろにする事ではないのか、現にその後に理事長となった正木氏は、壮年部のとある大きな会合の指導で以下のように指導をしていました。

「日蓮大聖人の御書は難しい、読んでも中々理解できるものではない。だから私達は池田先生のこれまでの御指導を学んでいけば良いのである。(要旨)」

これはその会合に参加した壮年部から聞きましたが、その壮年部員も、この正木理事長の指導のは大いに反感を抱いていました。

そしてそれ以降、創価学会の中では御書を持ち歩く人も減り、座談会でも御書講義は「大白蓮華」により行われる様になっていきました。

しかしこの「大白蓮華」という機関紙に掲載される御書は「切り文」とも言うべき扱いが多くあります。日蓮の御書を拝読する際には、時代背景と対告衆と言いますが誰に与えられたのか。そしてその対告衆はどの様な状況であったのかを知る事がとても大事なのです。そして当然、御書とは多くが手紙でもあるので、全体としてどの様な内容が書かれているのか、そこを理解する必要があるのです。

創価学会のこの様な教学に対する姿勢の変化もあって、創価学会の中では池田氏のスピーチは学ぶ事があっても、日蓮の語った仏教について学ぼうとする人は減少していました。そんな組織に変成していく中で、教学に対しては以前にもまして軽視する風潮が強くなってきたと感じたのです。

◆教学とは何か

創価学会にとって教学とは何か。

私が男子部になった時、教学は信心の背骨であると教わりました。また教学を学ぶ際には、剣豪の修行の様に行わなければならないとも言われたものです。また日蓮は教学に関して以下の様に述べています。

「あひかまへてあひかまへて信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
(諸法実相抄)

ここで日蓮は「行学」という事の重要性を述べています。ここで行とは修行を言い、こちらは仏法を学ぶための行いを指しますが、それとともに教学、つまり教えを学ぶ事も同じように重要だと述べています。しかし創価学会はどうかと言えば、学はともかく行に重きを置く文化が組織の中には根付いています。もう少し言えば、行こそが大事であり、学というのは「刺身のツマ」程度のものと考える文化が根付いてしまっているのです。

しかし宗教として自分達が信じているのは、どの様な教えなのか。本当ならばその点こそが重要なのですが、そこへの視点があまりにも軽んじてしまう文化が定着しているのです。その為に例えば「仏界」と一言で言いますが、ではそもそも「仏界とは何か」と問われた場合、会員を指導する幹部でさえ「それは負けじ魂だ」とか「諦めない心だ」という風に、言う事に統一感もなく明確に回答できる幹部はほぼ皆無でしょう。

中には「仏界ばかりは現じ難し」と言って、表には出てこないが尊極な生命なんだと言う人も居ますが、それでは日蓮が開目抄で言う「本門の因果、九界即仏界、仏界即九界とは何か」と問われると、答えに窮する幹部が殆どでしょう。

要は自分達が何を信じ、何を求めているのか、そこが実は明確に定まっていない事から、結果として組織の中の解釈もブレてしまい、結果として現在の様な状況に陥っているのではないでしょうか。でもまあ、その方がこの今の日本の混乱した政治情勢の中でも、公明党を「信仰心」により票集めをさせる事には好都合な事ではありますけどね。

だからと言って、私は創価学会の会員全員が、しっかりと御書を学び、日蓮の御書や教学を学べとは言いません。実際にこれにはかなり無理がある事は理解しています。しかしせめて壮年部であれば支部長以上は、昔の教授レベル位の教学力は付けるべきであり、その教学力を基礎として会員と話が出来なければいけないと思うのです。

とは言っても創価学会も既に瓦解の姿を見せ始めているので、そんな理想論を語ったところで、人材不足の為にあまり意味を為さないという現実もありますので、求めるだけ無駄な事は百も承知です。

◆戻るべきは日蓮なのか

では戻るべきは日蓮なのか。

実はそこもあまり意味がないのかもしれません。何故なら創価学会や日蓮正宗も教学の基礎として日蓮仏法を語りますが、実はここで言う日蓮仏法とは、江戸時代の中興の祖と言われている堅樹院日寛師の教学が基本となってしまっています。

ここで言う教学とは、主に日蓮の御書に対する解釈論の話でもあります。

この堅樹院日寛師の教学は、実は天台宗恵心流の流れを汲んだものとなっていて、実はそれ以前に日興門流の中心であった日辰師(要法寺13世)の教学とは異なるものなのです。この日辰師の教学とは、第二次宗門問題の時には「京都要法寺の教学」とも言われていて、これは日蓮正宗に入り込んだ異流儀の様に言われていましたが、そもそも日興門流では、堅樹院日寛師以前の主流の教学とは日辰師の教学でした。

ではそもそも日興師の流れの教学はどの様なものだったのか。それ以前に日蓮の語った教えとはどの様な事だったのか、そこについては私自身、少しづつ見返してはいますが、未だに明確な答えは持ち合わせていないのです。

またそれ以上に最近の仏教の研究で判明した事は、大乗仏教の最高経典であり、天台大師や日蓮が重要だとした法華経自体、釈迦の直説の経典ではなく、釈迦滅後500年前後にあった大乗仏教成立期前後に経典として成立したという事です。

もうこの様な状況の中では、日蓮仏法だから日蓮に立ち返れという。そんな単純な話でも無くなってきている時代だと私は感じています。天台大師の時代、また日蓮の時代には、この様な事は広く語られてもいない時代でした。

そうは言っても、私は人生を生きる為にはやはり、自身の信仰の基礎ともなる思想や哲学が必要だと思っています。その事から現在では、一つの足掛かりとして、鎌倉時代の日蓮の言葉を辿りながら、この事について思索を続けています。

考えてみれば大乗仏教であっても、その内容は釈迦の言葉を起点として、多くの人師や論師が研鑽を積み重ねる中で構築してきた哲学体系であり思想です。またそれを元にした様々な修行もあります。だから釈迦の言葉では無いから邪義だとか、天台大師の言葉だから重要だ、また日蓮がこの様に御書に書いているから、それが正義の論なのだとは、けして単純に言い切れるものでもありません。

それと同様に、私は日蓮を起点としてこういった事に思索を重ね、自分自身の人生を如何に有意義なものとして行けるのか、その為の教学を模索していけたらなと考えているのです。そしてこれは単なる宗教の枠の中の話でも無いと考えています。

◆これからの事

この様な事に思いが至った時、私は創価学会の教学には、何も期待を持たなくなりました。また同時に創価学会そのモノにも、実はあまり拘りを持っていません。確かにX上で創価学会や公明党の事について私はPOSTをしていますが、それはネット上に居る創価学会の活動家に対する「アンチテーゼの提示」の為なのかもしれませんし、そもそも四半世紀にわたり、そんな組織について生きて来た事に対する反発心があるのかもしれません。

しかし大事な事は、自分の人生をどの様に捉えて行けるのか、また残り人生、二十年あるかないかの時間ですが、その中でも自分自身への課題として、この事に対する思索を課すつもりで、そこで思った事などをブログでは書いていこうと思っています。

考えてみれば仏教の教えとは、信じる事も大事ですが、常に思索する事も大事であると言っているのではないでしょうか。信仰とは何も組織や指導者の言葉を鵜呑みにする事ではなく、常に学び、常に思索する事によって、自分自身の人生を理解する為の事だと私は考えているのです。

また仏道修行と言いますが、それは単に日蓮の文字曼荼羅の前で、マントラの様にお題目を唱えるとか、新聞の販売拡大や新規会員の獲得、ましては公明党の票集めでは無いと思います。それよりも日常生活の中で、様々な事を経験し、そこで得た事を思索の糧とする事も大事な修行にあたるのではないでしょうか。

現在、私はその様に考えているのです。

 

 

功徳と御利益について

 

さて、今回は功徳と御利益の事について話をします。

よく創価学会や日蓮正宗系で「功徳」という言葉が出てきますが、これ、大抵は病気が治ったとか、収入が上がった、希望の仕事場について等々、個々の願望が成就した事や、成就する事を「功徳」と呼んでいますよね。

私が男子部活動家の時代から、ネット(当時は掲示板が中心でしたが)ではよく「創価学会は現世利益を求める宗教だ」という指摘があり、当時の私は「それは違う」と反論をしたものですが、いまアラカンとなり、四半世紀以上、創価学会と関わってきた中で改めて見返してみると、確かに創価学会や日蓮正宗系は「現世御利益」を求める信仰であると思います。

これに関連する内容として、以前に以下の記事を書きました。

tango-saito.hateblo.jp

今回はこの功徳と御利益について、少し考えている事を書いてみます。

◆日蓮の言う功徳

日蓮が功徳について述べているのは御義口伝下にあります。

「御義口伝に云く法師とは五種法師なり功徳とは六根清浄の果報なり」

ここで言う「六根清浄」とは何かと言えば、“六つの感覚器官と心の働き(六根)から生じる迷い・執着・汚れを断ち、心身を清らかにすること” を言います。これをもっと噛み砕いて言えば、五感(五識)+意識(六識)が清浄となり、曇りなく事象を認識して生きていけるという事なのでしょう。

人は何かを感じると、そこに様々な感情が湧き出し、その感情によって周囲への認識力も混乱し、場合によっては感じた事象を正確に把握出来なくなります。

例えば病気になった、リストラされた、身内に不幸があった。

そんな事に巡り合った時、人は心がかき乱される中で正常に物事を判断する事が出来なくなります。今何が必要なのか、大事な事は何なのか。しかし六根清浄の状態であれば、如何なる時であっても、周囲の事象を正確に認識し、落ち着いた意識で、最善の対応と行動を取る事が出来ます。

つまり仏教で言う「功徳」とは、その様な心を得る事が出来る事を云い、それを「功徳」と呼んでいるのです。

また人は生きていく中で様々な情報に触れますが、それら情報についても正確に本質を掌握する事は難しいものです。人は理解する際に過去の経験や情報と比較しますが、何故ならその過去の経験から持ち合わせている情報自体、やはりそこには既に様々なバイアスが掛かっていますので、それを除いて正確に認識する事も困難な事なのです。

しかしそういう心を、もし清浄に保つ事が出来れば、人生にとってこれほど有意義な事は無いのではありませんか。

ちなみに日蓮の御書を振り返って見ると、実はこの「功徳」という言葉について、それほど多く語ってはいないのです。ただ堅樹院日寛師は、この功徳について六巻抄の中では以下の様に述べています。(以下は要旨です)

「功徳とは、南無妙法蓮華経を受持する身口意の三業に即して、
仏の随縁真如の智が衆生の生命に働き出すことによって現れる具体的な利益である」

ここで日寛師が述べたのは、功徳とは、御題目を唱えると自身の中に隨縁真如の智が湧き出してきて、そこで具体的に得られる御利益だというのです。

今の創価学会や日蓮正宗系でいう「功徳(御利益)」という考え方の誤謬は、恐らくこの堅樹院日寛師の教学から出てきているのではないかと思います。ちょうど江戸時代は、例えばお伊勢参りとか、様々な御利益信仰も語られ始めた時代なので、日寛師もそんな時流の中で、こういう事を語ったのかもしれません。

仏教の「功徳」とは六識を清浄とし、人々がその心を以って人生を正常な認識の元で生きていける事を指した言葉ですが、それが日寛師によって、その心が変わる事で得られれる果報の事を「功徳」と読み替えられてしまった。そういう事ではないでしょうか。

◆御利益求める創価の信仰

創価学会では、この「功徳」という単語を前面に出して、会員にひたすら祈祷師の様に文字曼荼羅に祈らせて、馬車馬の様に学会活動に奔走をさせています。

この画像はネットに出回っていた画像です。私も男子部時代、この様な事を紙に書いて仏壇の前に置き、朝晩必死に祈った事もあります。

こういった祈りは叶う事もありますが、大抵は叶う事はありません。

例えばですが、私が学生部時代の先輩で、教職についた先輩がいました。その先輩も確かに祈ってはいましたが、具体的には、学生時代の恩師の中に教育委員会に入っていた人が居て、その伝手を通じて教職員採用試験に合格していました。

これはけして不正試験という事ではなく、具体的なアドバイスをその恩師である教育委員会の人から得た事が、合格に向けては大きかったと言っていました。

つまるところ、日蓮の文字曼荼羅を信じて、そこへの「信力・行力」により「仏力・法力」が出現して、奇跡が起きる事を端から期待している様では、自分自身の祈りなんて叶う事は、ほぼ無いという事なのでしょう。

ただ悩ましいのは「ほぼ無い」と書きましたが、人生の中で偶にこういった奇跡が起きてしまう事もあるのです。

この事は、このブログでは幾度も引用しましたが、華厳経の中に「心如工画師」という言葉があります。これは「心は工みな画師の様に環境を描き出す」という事を説いたものです。最近でもこれについては一部界隈で話題にもなっていますが、実は私達の生きているこの世界は、自分自身が描き出している世界だと言う事で、これは量子力学の中の概念を元に良く語られています。シュレーディンガーのネコとか、月は私達が観察するから存在するという類の理論ですね。

理論はともかく、こういう事は実際にあると私は思います。これは何も創価学会に限らず、世界にある数多の宗教の中でも「奇跡体験」として語られている事もありますし、私自身の考えからしても、人というのは恐らく環境を創り出す能力というのは存在しているのでしょう。「ザ・シークレットー秘密の法」という本の中で、著者であるロンダ・バーンが「引き寄せの法則(Law of Attraction)」と語った内容なんかは、まさにこの事なのです。以前に創価学会の川田師範も、かなり昔ですが「教学研究」という学会系の小冊子の中で似た事は語っていました。

ただこの「心如工画師」の理論にしても、ここでいう「心」とは、八識以下の奥深い心の働きを指すので、それは私達が日常の中で感じる心(表層の六識である意識レベルの働き)ではありませんので、実際に今ある願望を祈って見ても、得られる結果が違うと感じる事が大半なのかと思います。何故なら奥深い心のレベルで、自分自身が本当は何を考求めているのか、そこを認識出来る人はそうそういないのです。

◆本来求めるべき事

私は仏教を信仰して得るものとは、こういった御利益では無いと考えています。

では何を求めているのか、それは六根清浄だとして、具体的にどの様な事を求めるべきなのか。そこについては「ゴータミーの芥子の粒の説話」の中に、その片鱗があると思いますので、ここで紹介いたします。

キサー・ゴータミーは若い母親でしたが、ある時大事な一人息子を亡くしてしまい、悲しみのあまり街中をさまよい歩いていました。

そして会う人々に懇願するのです。

「この子を生き返らせてください」

しかし誰も彼女の悲痛な願いを聞き届ける事が出来ません。しかしある時、町の人から

「釈迦という聖者がいまこの町に来ているそうだから、釈迦に相談したら何とかしてくれるかもしれない」

この話を聞いたゴータミーは、藁をもすがる思いで釈迦の元に駆け付け、釈迦に対して必死に懇願したと言います。

「この子を生き返らせてください」

それを聞いた釈迦は言いました。

「それでは死者を出したことのない家から芥子の粒をもらってきなさい。それができれば、子を生き返らせよう」

これを聞いたゴータミーは喜び勇んで町の中で芥子の粒を求めて必死に歩き回りました。しかし芥子の粒は手に入れる事が出来るのですが、釈迦の言う「死者を出したことのない家」は一軒もありませんでした。ゴータミーが家々を回る中で聞くのは、どの家でも「死者」は必ずいたのです。恐らくゴータミーは回る中で、人々が身内から死者を出し、そこで嘆き悲しみを抱えながらも必死に生きている話を多く見たのでしょう。彼女は思いました。

「死者を出したことのない家”は一軒も存在しない。」

人生におけるこの現実を覚ったゴータミーは、そこで漸く、息子を亡くしたという現実を受け止め、釈迦の元に戻ってその事を語ったというのです。そして釈迦の下で出家し、後に阿羅漢となりました。

以上が簡単ではありますが、「ゴータミーの芥子の粒の説話」です。

ゴータミーは悲嘆にくれる中で混乱し、亡くなった息子を生き返らせる事だけに囚われ、自分自身を見失っていたのでしょう。そんなゴータミーを見て、釈迦は一つの方途として方便で「死者を出したことのない家から芥子の粒をもらってきなさい」と彼女に語り、彼女は亡き息子を生き返らせられるのであればと必死に街中に飛び出し、人々の中で芥子の粒を求めました。しかしそんな彼女は、街中で人々と語らう中で、人生の中の四苦のうち、「死苦」の苦しみを逃れる事が出来ないことを理解したのです。

つまりここでゴータミーは、人生の中にある真理の一つを身を以って経験し、理解出来たのでしょう。そこから人生への洞察を更に深める為に出家し、最後に阿羅漢になったという事に、私は功徳(六根清浄)の片鱗を感じるのです。

これは一例ですが、仏教の本来求めているのは、こういう事ではないでしょうか。

何も祈祷師の様にお題目をマントラの様に何時間も唱え、必死に創価学会の支持通りに組織活動をして求めるものが功徳ではなく、折伏の時には手あたり次第に勧誘し、選挙の時には必死に公明党の票集めをする事で得られるものではありません。

 

以上が私の考えている功徳と御利益についてです。

でも創価学会ではよく言います、「力ある宗教、正しい宗教は、必ず祈りを叶える事が出来る」と。しかしそんな事を仏教は求める教えでもなく、日蓮も時々の門下を励ますために、それに近い事は述べたと思いますが、それはけして目的などではありません。

しかしどうしても「功徳(御利益)」を得たい、祈りを必ず叶えたいというのであれば、私は「稲荷信仰」をお勧めします。この稲荷信仰は経営者でもやっている人が多く居るようです。聞くところによれば、稲荷信仰の力は凄いと言いますから、御利益を得たいのであれば、そちらの方がより近道になるかもしれませんよ。

ただし、、それなりの対価が必要だという話しも耳にしますけどね。

人生、目先の願望ばかりを考えていても、そこで叶えて得たものは、死を越えて持ち越す事は出来ません。この死を越えて持ち越す事の出来るものは、人生で得た経験と思い出であり、自分自身の心の状態では無いでしょうか。

宗教を実践するというのであれば、まずはそういう事を少しは考えて実践された方が良いと思いますよ。創価学会は「自分達は力のある正しい宗教だ」と言いますが、それは耳障りの良い戯言なんですからね。

 

御題目の因果倶時について

お題目は日蓮の専売特許ではなく、既に天台宗の勤行要典にもあったものです。だから日蓮がこの世界で初めてお題目を唱えたというのは、少し語弊のある事だと私は考えています。

天台宗の勤行要点には、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来、南無妙法蓮華経とありましたが、日蓮はそこの中からお題目を肝心として捉え、天台宗より一段深く捉えたものとしてお題目を唱えたのではないか。私はその様に考えているのです。

この御題目の意義について、私は御義口伝で述べられている内容が、日蓮の捉えていた題目の意義だと思います。

この事は前にも書きましたが、まずは簡単に振り返りの意味を含めて、ここで少し書いてみます。

御義口伝を振り返る前に、まず口伝は邪義だと嫌う節もありますが、私は日蓮の御書でも後世に書かれたもの(いわゆる偽書)でも、日蓮の本義に則っていれば、それは学ぶべきものだと考えています。仏教の大乗経典でも、法華経は釈迦の直説ではないにも関わらず大乗経典の最高峰と呼ばれています。その事を踏まえ、日蓮が書いてないから偽書だといい、それらを捨て去るのは少し乱暴なものです。但し偽書の中でもやはりおかしな御書もあるので、そこは捨て去れば良いだけです。例えば産湯相承書や百六箇抄という、いわゆる相伝書の類のなかにそんな御書は多くあります。

◆御題目の意義

御義口伝によれば。

御題目の「南無」とは梵語(古代インド語)の音訳として漢訳時につけられたもので、ナマスという言葉の音感を漢字に当てたものです。その意味は「帰命」というもので、要はその教えを信じて敬う事を言います。またこの「帰命」には、心での帰命と身体での帰命があります。日蓮はこれを「色心」と述べてますが、人は心で信じても行動が伴わなかったり、行動はあっても心が伴わない事はよくあります。御題目の「南無」は色心共に帰命する事を云い、この様に信じて帰依する事を意味しています。

また帰命には「人」に対する帰命と、「法」に対する帰命があります。日蓮はこれについて、人とは教主釈尊に帰命する事であり、法とは妙法蓮華経に帰命するとあります。日蓮はここで教主釈尊と述べていますが、日蓮自身である事を述べてません。しかし堅樹院日寛師の教学では、そこを忖度して末法本仏の日蓮と読んでいますが、日蓮の開目抄の流れで見ても、この釈尊とは釈迦である事は間違いありません。

また帰命の「帰」とは迹門不変真如の理に帰する事を言うと述べています。ここで言う迹門不変真如の理とは、法華経の迹門で示された一念三千という理に帰する事を云います。そして「命」とは本門隨縁真如の智に命(もと)ずく事で、これは本門で示された久遠実成の釈尊で示される姿を示しています。つまり久遠実成の釈尊も、一念三千で示された理による姿を体現しており、ここでは理論(不変真如の智)と実際の姿(隨縁真如の智)の二面を示していて、「帰命」とはその様な両面に対して帰命するという意義を示してい ます。そして天台大師が述べていた「随縁不変一念寂照」とはこの意義を述べたものだというのです。

また「妙法」の「妙」とは法性、これは悟りの実体を示す事で、「法」とは無明で、私達が悩み苦しむ根本を示しています。そして「妙法」という事は、悟りと悩みのは共に一つである事を示しているのであって、別々に存在する事では無い事を示しています。

また「蓮華」とは蓮華の華の姿の様に、華の中には既に種子が具わる事から、原因と結果は常に同時にある事を示し、この事を因果俱時と言います。一往としては修行と悟りは同じ時にある事を示していますが、具体的には私達の人生の姿もこの「蓮華」の様に、様々な苦楽を感じる出来事(結果)とは、それは目的(原因)も既に内在している事を示しているのです。

そして「経」とは、私達が生きていく中で発する声の意義を示しています。ここでは「声」と言いますが、声を発する時には、そこには考える事や感じる事があり、その先の行動の中で私達は声を発しますので、そういった姿の事を「経」という一文字の中に意義が込められているのです。

この様に私達の心の実相(本当の姿とも言えるかと)を明確に説き現されたのが妙法蓮華経という経典であり、私達はそれに帰命するという意義が、この御題目に込められていると、先ずは理解すべき事なのです。

◆因果倶時について

この御題目に込められらている意義の中で、今回は因果倶時について少し話をすすめてみます。

先にも述べましたが、因果倶時とは原因(修行)と結果(悟り)は共に同じ時にある事を述べたものです。創価学会もそうですが、例えば「宿命転換」とか「人間革命」と言いますが、それらは学会活動を必死に行った先に得られるものと教えています。

これは因果異時ですね。

選挙の度に「今回の戦いで宿命転換を成し遂げよう!」と幹部たちは会員に鞭打って活動に走らせ、それを聞いた会員も、この選挙の活動で祈りが叶うと信じて必死に票集めをしていますが、この考え方はそもそも因果倶時ではありません。ただそもそも創価の云う宿命転換や人間革命が選挙で出来るのか、そもそも法華経を信じる信仰が、そんな事を求めているのか、そこは置いといての話ですが。

また仏教一般でも成仏とは修行の先に得られる境涯だと信じられています。だからその得難い境涯を得るために、激しい修行に打ち込む修行僧も居るわけで、それはその先に素晴らしい境涯を求めての行動でしょう。

そもそも大乗仏教に於いても、長い間、多くの仏の下で修行に励んだ結果、仏になれると教えていたので、これは当然の解釈なのです。法華経の迹門で二乗と呼ばれた舎利弗や目犍連等に与えられた「記別」についても、即身成仏という事ではなく、未来における成仏の約束を与えた事に過ぎません。

ただ提婆達多品では龍王の子女である龍女が即身成仏を果たしましたが、それは法華経の展開から見てとても異端な事であり、そこもあって私は提婆達多品は後世に組み入れられたものだと捉えています。

話が少し逸れましたので、元に戻します。

さて、法華経の如来寿量品で久遠実成の釈尊が説かれると、実はこの因(修行)と果(成仏)という事について、時系列が変えられました。久遠実成では数字的に計り知れない久遠という事を示しましたが、これは単に時間の長遠を示した言葉ではないのです。それは弥勒菩薩がこの久遠について、算術譬喩する事が出来ず、二乗や菩薩の智慧をもってしても理解できない事だと釈迦に返答している事から明確に示されています。

日蓮正宗では久遠元初と、その更に大昔があると云い、日蓮は久遠元初の釈迦よりも、もっと大昔に成仏したと言いますが、これは如来寿量品の弥勒菩薩の言葉を無視した暴論なのです。

久遠とは数字的な遠さを示す言葉ではなく、根源的な事を示す譬喩で、ここで人は根源的に仏の悟りを持っている事を明かしました。つまり久遠実情の釈尊は既に成仏は本源的にしていて、修行も成仏も同時に存在しているわけです(因果俱時)。また仏としてこの娑婆世界に出現するのは、人々を導くための姿ではありますが、その仏の下で修行をしていた人達も共に久遠実成の釈尊である事を、如来寿量品の燃燈仏の話を通して示してもいます。

しかしこれを聞いても、多くの人達は理解に苦しむでしょう。私達は本源的に既に悟りを得ているんだと言われたところで、日々の生活の中、私達は様々な悩みや苦しみに遭遇していて、そこを抜け出せずにいます。これでどこが「悟り」を得ているんだと。ましてや生死に関わる様な重病で苦しんで居たり、経済的に困窮し、明日食べるコメも無い人にとっては、信じろと言われた処で、ハイソウデスカなんて事にはならず、むしろ逆鱗に触れてしまうかもしれません。

久遠実成の釈尊、因果俱時とはそういう事なので、だからこそ日蓮も「難信難解」と言っているのでしょう。

◆因果俱時から捉えたお題目

私は唱題行について、この様な法華経の意義を理解した上で、自分自身の中に答えを求めるために唱える事には、大いに意味があると想います。しかし単に祈りを叶えたい、現状を何とか祈りの中で変えていきたいと、まるで祈祷師の様に、お題目をマントラ(呪文)の様に唱える事は不必要だと考えています。

さて、この因果倶時ですが、ここでいう因果の因とは原因を言いますが、これを聞くと「悩みや苦しみの原因」とい捉え、そこに宿業論を持ち込んで考えてしまい、過去世の悪行の結果だと言う話にもなってしまいます。しかしそれでは本当の意味で、この因果倶時の原因を理解した事にはなりません。

私はこれを「原因」という言葉ではなく「目的」と捉えています。つまり人生に起きる幸不幸には、そこに必ず目的が存在すると。ではその目的を持ったのは誰か、それこそが心の奥底にある久遠実成の仏であり、日蓮はこの事を「九識心王真如の都」と呼び、仏界即九界、九界即仏界という本門の因果で示した心の本源なのではないでしょうか。

九識論で少しひも解くと、人は六識(意識)より深い層にある心(深層心理)を認識する事は出来ません。これは前に書いた通り、心理テストを行うと、自分の思っていた事とは違う結果に驚かれる人が多いですが、それはこの事を表しています。それより深くある意識層、過去世の自分自身の記憶さえ思い出せない人間が、更に奥深くにある心の働きは、到底認識できるはずもありません。

しかしこの「目的」を定めているのは、あくまでも意識レベルの「自我」ではなく、より深く、本源的に存在している九識(久遠実成の釈尊)のレベルの心の「仏界」とも言うべき存在です。

この事から私は人生に起きる問題とは、基本的には全て解決できる出来事であると私は考えているのです。ただし、人生の問題にぶつかった時、一番問題になるのは、表層的な心の意識レベルで感情として動揺し、狼狽えてしまう事なのかもしれません。そうなると本来の目的以前に、人生により混乱を来してしまい、結果として「目的」すら見失った状態にもなってしまうのかもしれませんね。

以前に高須クリニックの高須院長は上手い事を云っていました。

「人生何があっても死んではならない。何故なら生きていれば全ての問題は必ず乗り越えられる」

そんな時こそ、実は時間の多寡に関係なく、自分自身を見つめる為の御題目が必要になると思います。そしてそれが本来の「唱法華題目」という事にも繋がるのではないでしょうか。

その意義もあるので、日蓮は日女御前御返事(本尊相貌抄)にも以下の言葉を述べたのかもしれません。

「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」

文字曼荼羅には悪鬼魔民から全ての諸尊が認めてあるという意義を持ちますが、それらは私達の心に出現するそれぞれの姿です。そしてその姿は「妙法の五字(お題目)」に照らされる事で、本有(本来あるべき)の尊形(尊い姿)として現れると。

 

法華経の中から知るべき事

先週までは台風25号の影響で天気もあまり優れず、この間の火曜日(9月22日)は台風一過で天気も良かったのですが、それ以降は秋雨前線の影響もあって雨模様。本日は天気が良いのですが、これも長続きせずにまた南方海上には台風が発生しています。

千葉県も豪雨被害が2度も続き、大変な情況となっていますが、今年の天候は過去に類例を見ない状況となっています。これは時代の変革期が来ているという、一つの証左なのではと個人的には観ています。何しろ私の亡き両親はこの様な世界を知らずに鬼籍へ入っていますから。

そんな出来事を肌身で私は実感している訳で、これはこれで貴重な経験なんだろうと、実感する日々を私は送っています。

さて今回ですが、この人生について法華経はどの様な視点を与えてくれるのか、その事について私の考えている事を少し書いてみます。お時間のある方はお付き合い頂けたら幸いです。

◆法華経について

法華経とは釈迦滅後、約五百年前後に成立した経典である事は、このブロクで幾度か書かせて頂いています。この成立時期は大乗仏教の成立時期と重なる時期なので、仏教教団の中で、大きな思想的な変化が起きている中で成立した経典なのでしょう。

つまり釈迦は法華経にある思想は言及しておらず、これは釈迦を慕う人々の中で成立した経典であるわけで、そもそもそれまでの仏教教団の中では語られていなかった内容と言ってもそれは強ち間違いではありません。

しかしその後、大乗仏教の唯識派と云われる人師や論師(龍樹や天親など)にも、この法華経の思想は影響を与え支持されてきた訳ですから、その点から見ても、やはり優れた経典と言っても良いでしょう。

法華経の中で最重要なものはやはり「久遠実成の釈尊」という教えでしょう。この事から天台大師智顗や日蓮の教相判釈でも「本迹相対」として、この久遠実成を明かした如来寿量品以降を本門(核心的な教え)とされていました。

法華経の前半で明かされた十如是や、二乗作仏(それまでの大乗経典では成仏しないと言われ続けた釈迦の弟子達に未来での成仏を約束した事)も、この久遠実成を説明する為の下準備の様なものでした。

この辺りの事は、日蓮も開目抄の中で述べていますよね。

また法華経には「法華経七譬」が説かれていますが、これらの譬えは、釈迦がこの法華経の核心に人々を導き、この核心の意義やその存在について譬え話として、一往は各々の弟子が理解し得た内容として語られたものです。だから久遠実成が明かされた後、法華経の会座に参加していた聴衆も全ての疑念が氷塊したのかもしれません。

◆仏とは

それまで仏教でいう「仏」とは、釈迦の事であり、この釈迦は若くして出家し、苦行を経て、それでは意味を見出せないと知った後、菩提樹の下で結跏趺坐し瞑想の結果、魔を降して成道(成仏)したというものでした。

仏とは生死を超越し、また三世(過去・現在・未来)を通暁(見通す事が出来る)し、この世界の実相を見極めて、慈悲の力で人々を指導し導く存在です。

そして法華経以前では、歴劫修行と言い、長い年月の間、多くの仏のもとで修行をして得られる境涯と言われていて、人々はその仏の境涯を得る為に修行に励んだのです。しかし法華経の如来寿量品では、この成仏という考え方を否定し、仏とはもともと人の心の奥底に具わるものであり、それは久遠の昔から現在に至り、未来へと続いていく事を明かしました。

また釈迦が修行の結果、成仏したという姿を見せた事は、徳薄く垢重い衆生に対する方便として見せていた姿であって、それは本来の仏の姿でもない事を説いたのです。

この如来寿量品では、仏の境涯に「成る」のではなく、仏の境涯を「知る」という転換は行われましたが、それではこの仏という姿そのものを否定した訳ではありません。如来寿量品で仏は久遠の昔から娑婆世界に存在し、あらゆる仏の姿や菩薩の姿として出現しても来ましたが、例えば燃燈仏の弟子である前世の釈迦の姿としても出現をしていたのです。そればかりではありません。本生譚(ジャータカ伝説)で説かれた悩み苦しみながらも法を求め続けた過去世の釈迦の姿も、実は久遠実成の釈尊の姿となったのです。

この事について日蓮は開目抄で以下の様に述べました。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし、」

詰まるところ、色相荘厳の仏というのは実際の仏の姿ではなく、仏と言っても娑婆世界に出現するのは九界(迷いの境涯)の姿として顕れ、九界の姿の中にこそ、仏の境涯というのは見て取れるというのです。

ではこれを、実際に私達の生活の中で、どの様に捉えるべきなのでしょうか。

実はそこがあまり議論をされてもいないし、あまり語られてもいない部分だと思います。

私達の日常とは「八風」と呼ばれる様に、心の中に様々な感情の渦が巻き起こる中で生活をしています。

それは喜びであったり、怒りであったり、不安であったり、偶に平静な時もあるでしょう。これについて「毀誉褒貶」とも言われていますが、社会の中で様々な人との関わりや、環境の変化の度に、こういった様々な感情が私達の心の中には渦巻いてくるのです。そして人々はその心に渦巻く様々な感情によって、苦悩を感じ、社会への不満や、時には社会や人、はては自分自身に向かって瞋恚の感情を持つ事もあるのです。

法華経以前ではこういった事を、宿業と呼び、また煩悩とも呼んで、それら苦悩を一切断ち切って涅槃に至る事を教え、それこそが成仏だとしていました。しかし如来寿量品の説いた久遠実成の釈尊の観点で言えば、それら様々な感情を受けながらも、生きてきたのが久遠実成の釈尊の姿だと説き明かしたのです。

「諸の善男子、是の中間に於て我燃燈仏等と説き、又復其れ涅槃に入ると言いき。
 是の如きは皆方便を以て分別せしなり。」

如来寿量品にあるこの言葉は、その事を顕していると私は思うのです。

ではこれは何の為なのか、そこは以下の様に説いています。

「但方便を以て衆生を教化して、仏道に入らしめんとして是の如き説を作す。
 諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。」

ここでは人々を度脱(心の中にある仏の境涯を知る)ために、この様に様々な方便をもって、その姿を現しているという事ですね。

そして以下の様に続いて説いています。

「如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事、如来明かに見て錯謬あることなし。」

つまり私達が日々感じる様々な事は、心の奥にある久遠実成の釈尊が方便として顕している事であり、それらは全てが方便であると言うのです。そしてこの方便は三世(過去・現在・未来)に渡る知見の上から起きている事であり、このレベルでは生死すらも娑婆世界に出現したり、退出したりする事でも無いというのです。

要は人生に巻き起こる様々な出来事も、全てが度脱させる為の方便の姿として、心の奥底にある久遠実成の釈尊が起こしているという事なのでしょう。

◆ここから理解すべき事

私もアラカンの世代となり、半世紀以上、この世界を生きてきました。

創価学会を信じ始め、活動を始めた頃には、創価学会の指導を信じ、しっかりと学会活動に励む中で人生盤石な境涯を築いていける事を信じても来たのです。

しかしながら、五十代を過ぎても人生には様々な難問が常に湧き出てきます。これはある意味で切りが無いなと感じた事も多くあります。中には、若い時代にそれを乗り越える為に必死に自分自身の時間を使いながら、創価学会の信心をしてきたのに、何故この年齢になってもこの様に苦悩が続くのかと感じた事も多くありました。

しかしその一方で、人生の中を振り返って見ると、そこにはそれぞれ様々な苦悩があり、その中で様々な出会いも経験して来ました。でも考えてみればこの人の出会いも時々でタイムリーな事で、そんな中で私は生きて来れたのでは無いかと思ったのです。

要を訳して言えば、様々な苦難とは、その年齢でそれを経験する必要があって、その中で必要な人と人生の中で出会う事も出来た。そしてそれが現在の自分自身に続いている。そういう事に気付いたのです。

そうなると実は人生というのは、細かくではありませんが、大枠の流れというのが存在し、その大枠の流れの中で私自身は生きて来たのでは無いかと感じました。またその大枠の流れを創り出している私自身の心の根源にある存在を、法華経では久遠実成の釈尊として説かれたのではないでしょうか。

こうなると人生について、大事な事は何かという事にもなります。

私はそれを「自分を信じれる事になる=自信を持つ事」と思っています。様々な出来事に遭遇する中、「この先、自分はどうなっていくんだろうか」と感じる事は人生の中で多く在りますが、そんな時でも「この先、自分なら大丈夫だ」と信じる心を持てるかどうか、そこが大事になると思うのです。

日蓮は門下の四条金吾に以下の御書を宛てて述べています。

「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利衰毀誉称譏苦楽なり、をを心は利あるによろこばずをとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり」(八風抄)

ここでは利衰毀誉称譏苦楽の八風、つまり感情に揺れ動き狼狽する状況では、守りは得られない。諸天善神はその八風に侵されず、常に淡々と人生を生きていく人を守ると述べています。

これは人生にとって、とても重要な事だと思いませんか?
その為にも、人は「自信を持つ」という事が、とても大事なのではないでしょうか。

 

と、、、ここまで書いたのはあくまでも私の信仰観であり、私見です。人生の真理はこれだと私は言いません。

ただこういった事は、法華経を信奉していると自負している創価学会や宗門では教えませんし語りもしませんよね。

宗教にとって、信者が自立してしまうと「儲け」の枠から出て行ってしまいます。

しかし人生をより有意義に生きていくには、自分がどの様に人生を歩むべきか、そこは真面目に考えなくてはなりません。そして法華経の内容と日蓮の言葉の随所に、そのヒントは散りばめられていると思っています。

 

アンネフランクとイスラエルから戦争を考える

高市総理はアメリカへ行き、国連総会で演説を行い、トランプ大統領と日米首脳会談を行いましたね。

私の政治的な立ち位置ですが、現在の処、自民党の高市政権を支持しています。

これはネットで良く言われる「高市信者」とか、そういうものではありません。今の日本の政治状況を見た時、少なくとも岸田政権や石破政権と比較して、高市政権が良くやっている部分もあるという、betterな選択として支持しているだけです。

これは自民党を支持している事についても同様で、高市政権の与党として評価をしているだけであり、自民党をそもそも熱烈に支持している訳でも無いのです。

いま国内の左翼の人達は「高市辞めろ」という事を主張し、集団で集まりシュプレヒコールをあげ、街頭で歌い踊ってもいますが、それでは高市政権を辞めさせたとして、それ以上に今の国民から支持される政権を、いまどこの政治家が作る事が出来るのでしょうか?

それが田村女史や福島女史だというのですか?

そこを示さないまま、単に騒いでいても結果として国論は動く事はないと私は思います。

これでは所詮、幕末に日本各地で起きた「ええじゃないか運動」と同じです。

あともう一つ、高市政権が戦争を起こす内閣だとか、軍拡内閣なんて事を主張していますが、それでは何時、何処で、どの国家と戦争すると高市政権は息巻いているんでしょうか。よく中国に対して緊張を高める事ばかりして、軍事費(防衛費)をあげて軍備を拡大していると左翼関係者は言いますが、高市総理が発言した「存立危機事態」とは安保法制に基づく事で、この根拠は集団的自衛権に戻づく発言であり、国際的には集団的自衛権に関する発言は何れの国で良くある事なのです。今回はそれを中国が殊更騒ぎ出し、国際的に一方的に日本を非難する口実にしているに過ぎません。

もちろん今の日本国憲法との兼ね合いでは、問題は確かにありますが、これは単に国内の問題という事ですから、外交的に日本人がそれを持ち出して世界の中で騒ぐのは変な話なのです。

そもそも中国の軍事費の伸び率は、ここ30年間連続して増加し、毎年ほぼ7パーセントの伸び率を示しています。

そんな中で、尖閣諸島に海警(日本の海上保安庁にあたり、世界的には準軍事組織として認識されている)艦艇を派遣し日本の漁船を追い回し、領空侵犯を増加させているのですから、日本が国として警戒するのは至極当たり前の事ではありませんか。

私は日本の左翼の人達は、もう少し国際情勢と、国家の安全保障について学んでから、有意義な発言や行動をすべきだと思います。しかしその様な事を理解しないで行動するから、今現在、中国などの認知戦に利用されまくっているのではないでしょうか。

私はそんな感じで、彼ら左翼の行動を見ています。

◆戦争と軍事について

私の個人的な信条からしても、できれば戦争は起きてほしくない。また子供や孫の時代に、若い世代が戦場に引っ張り出される事は良しと考えた事はありません。

しかし人類史を見ると、それは戦争の歴史とも言うべき色合いに溢れています。

またこの戦争は、現在も世界中のあらゆる場所で起きていて、そこでは多くの人達が戦乱に巻き込まれ命を無くしている現実があります。

これは人間の心の中にある「残虐性」が表出しているとも考えますが、それではこの人が持つ「残虐性」とはどんな事なのか。今回はそれを第二次世界大戦の中で、ユダヤ人少女のアンネフランクと、大戦後にパレスチナで成立したユダヤ人国家のイスラエルの事を通して、少し考えてみたいと思います。

・アンネフランクについて

ところで今の時代、アンネフランクという少女の事を、どれだけの人が知っているのでしょうか。

アンネフランクは1929年にドイツのフランクフルトで生まれたユダヤ系ドイツ人の少女で、第二次世界大戦中にナチスの迫害から逃れる為に家族とともに隠家生活を送り、そこで綴られた日記が後に「アンネの日記」として出版され、世界的に知られる様になりました。

その後、アンネフランクは1945年2~3月頃にナチスに捕まり、ベルゲン=ベンゼン強制収容所で15歳の若さで亡くなりました。

ナチス・ドイツはユダヤ人をせん滅すべく、第二次世界大戦の時には、多くのユダヤ人を収容所に送り、そこで大量殺戮を行った事は多くの人は知っていると思います。有名な場所ではアウシュビッツ強制収容所などがあげられますが、戦時中にはこうした収容所で約600万人のユダヤ人が殺害されました。アンネフランクもそういう殺害されたユダヤ人の一人なのです。

・ユダヤ人への弾圧

しかし何故、ユダヤ人は殺害されたのでしょうか。

第二次世界大戦以前の第一次世界大戦で、ドイツは敗戦国となり、莫大な賠償金を求められていました。この事からドイツ国内ではハイパーインフレーションや失業者の激増もあり、社会不安は拡大を続けていたのです。

簡略化した内容で言えば、その様なドイツの中でナチスは急速に勢力を拡大し、ヒトラーは政権を取る事になったのです。そしてヒトラーは歴史的に金融業に従事する人も多く、また当時のドイツ国内では主要な産業に経営者として働くユダヤ人が多く居る中で、彼らに対して「経済危機=ユダヤ人の陰謀」というイメージを大衆に植え付けて行きました。

しかし何故、ユダヤ人はナチスから目を付けられたのでしょうか。

ここには「第一次世界大戦でドイツが敗北したのは、国内に裏切者が居て、彼らから背後をさされ敗北したのだ」という考え方がありましたが、その根底にはナチスが進めていた「優生学的な思想」を実現させるという目的もあった様です。

「アーリア人こそ優秀な民族であり、ユダヤ人は退化した民族である」

そもそも19世紀以降、ヨーロッパで民族国家が形成され始めた時、「国民とは誰なのか」「外部の敵は誰か」と言う様な線引きする思想が強まり始めましたが、その際にユダヤ人は「国家を持たない民」として、同化しない異質な存在と見られていました。そのイメージはナチスのユダヤ人迫害以前に、ヨーロッパの人々の中で広がり始めていたのです。

ヒトラーはそれを巧みに利用しながら、「アーリア人こそ優秀な民族である」というプロパガンダをドイツ人の中に浸透させる為、このユダヤ人を利用し、結果として第二次世界大戦の時にナチス・ドイツからユダヤ人は迫害され、大量虐殺される事になりました。

・国家無き民族

ユダヤ人はもともと現在のパレスチナ地域に住んでいた民族です。

しかし紀元前732年の北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされた時に、多くのユダヤ人が強勢移住を強いられたり、紀元前586年には南王国ユダがバビロニアによって滅ぼされ、この時にはエルサレムにあった彼らの神殿も破壊され、住民がバビロンに連行されるという事もありました。しかしその後、ペルシャ帝国がユダヤ人の帰還を許可し、一定の自治を回復しました。

しかしその後、決定的な事件が二回に渡り起きました。それはローマ帝国によるユダヤ国家の消滅です。

一回目は紀元70年のローマ軍の侵攻です。この時、エルサレムはローマ軍に包囲され、第二神殿を破壊されました。結果として彼らの宗教的中心が失われ、政治的に自治権も消滅したのです。

そして二回目は紀元135年に、ローマ帝国に支配されたユダヤ人が大規模な反乱を起こし、独立を試みた事がありました。それが「パル・コバク反乱」です。しかしこの反乱はローマ軍によって鎮圧され、結果としてユダヤ人はエルサレムから追放されてしまいました。その後、ユダヤ人の住んでいた地域は「パレスチナ」と改名され、ユダヤ人は自分達の主権国家を完全に失い、世界各地に散らばって行ったのです。

・イスラエルの建国

イスラエル建国以前に、実はパレスチナへのユダヤ人の移住は始まっていました。

それは1882年から1939年にかけてですが、東欧などで迫害されたユダヤ人はパレスチナへ移住を開始、その後にパレスチナで近代的なユダヤ社会が形成され始めました。

また第一次世界大戦の時には、イギリスは「ユダヤ人の民族的郷土をパレスチナに建国する事を支持」を表明し、これはバルフォア宣言と呼ばれています。そして国際連盟がパレスチナをイギリスの委任統治領に指定してから、ユダヤ人の移民が増加しはじめ、アラブ人との対立が激化し始めました。1936年から1939年にかけて、パレスチナではアラブ大反乱が起きましたが、これにはイギリスの支配とユダヤ人移民への抵抗があったのです。

その様な状況の中、第二次世界大戦ではイギリスは二重外交を、このパレスチナの地で行いました。

それはユダヤ人とパレスチナ人(アラブ人)に対して、第二次世界大戦でイギリスに協力すれば、国家の建設を約束するというもので、これはユダヤ人とパレスチナ人から協力を得たい為に行ったものでした。しかし結果としてイギリスの外交矛盾は解消できずに、この問題は第二次世界大戦後になり、さらに悪化させてしまったのです。

この様な状況の中で、イギリスのパレスチナ統治は第二次世界大戦後にはユダヤ人とパレスチナ人の間で混乱を起こしてしまい、結果、統治不能状態となりました。そして1947年にこの問題をイギリスは国際連合に丸投げしましたが、国連ではパレスチナをユダヤ国家とパレスチナ国家に分割する案が採択されました。しかしイギリスはこれを実行する事が出来ず、1948年5月に統治を終了して撤退してしまったのです。

要はイギリスは放り出してしまったんですね。

しかしこのイギリスによる委任統治が終了する直前、ユダヤ社会の指導者(パレスチナのユダヤ機関議長)だったダヴィド・ベン=グリオンがイスラエル建国を宣言し、その翌日には周辺アラブ諸国がパレスチナへ侵攻を開始、ここから第一次中東戦争が勃発したのです。

この戦争でイスラエルは勝利し、国連分割統治案で示された地域よりも拡大した地域を領有する事が出来ました。その後、中東戦争は第六次まで行われましたが、全ての戦争に対してイスラエルは勝利し、現在に至っています。

そして現在、イスラエルは国内に居住するパレスチナ人を、一定の居留区に押し込める形となっていますが、そのパレスチナ居留区を巡って、パレスチナ勢力との戦争状態が現在も継続されていて、そのパレスチナ勢力の背景にいるイランとも実質的な戦争状態が続いているのです。

 

イスラエルという国家は小さい国ですが、常に好戦的な行動をとる国家として知られています。

何故、第二次世界大戦で、アンネフランクの様な人々がナチス・ドイツから迫害され、大領虐殺をされた民族が、現在では、パレスチナの地で今度はパレスチナ人に対して、ホロコーストとも言える様な行動を取っているのでしょうか。

ユダヤ人は2000年前に自分達が住んでいた地、これは神がアブラハムとその子孫に与えると約束された地であり、彼らはそこを「カナンの地(Land of Canaan)」と呼んでいます。そしてローマ帝国に敗戦し、この地を追放され国家無き民としてユダヤ人は、長きにわたり、ヨーロッパなど世界に散り、そこで様々な迫害の中で生き抜いてきました。

それが第一次世界大戦の頃から、「カナンの地」への帰還する事が見え始め、第二次世界大戦後には、まかりなりにも自分達の民族の国家を、この地で樹立する事が出来たのです。これには単なる国家設立という意思以前に、かれらユダヤ人の根本的なアイデンティティにも関わる出来事なのです。

その結果、第二次世界大戦では「悲劇の民族」とみられたユダヤ人が、今や他民族をも迫害する側に立っているのでは無いかと私は思うのです。

これはとても皮肉な事だと思います。

もちろん、私がここでまとめた事柄は、ユダヤ人にとっては極表層的な事なのかもしれません。でも今、パレスチナで起きている事、またイランを巻き込む戦争となっている事。あとこれは穿った見方かもしれませんが、アメリカ国内に強固なロビイストを送り込んでいる事も、彼らのアイデンティティの為なのではないでしょうか。

全ての戦争がこういった事で起きる訳ではありません。

でも戦争とは国家が起こすものであり、その国家を護る組織が軍隊でもあります。世界に多数の異なる文化や宗教、そして思想を持つ民族がいますが、その民族の利権を守る為の組織が国家でもあるのです。

先の第二次世界大戦で敗戦国となった日本ですが、戦後に連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥は、太平洋戦争の事を「日本にとっては自衛のための戦争であった」と発言したのは最近になり日本の中でも認知され始めてきましたが、詳細は異なっても戦争の本質的な部分は、このユダヤ人のイスラエル建国と似た部分もあると私は感じているのです。

そんな戦争を地球上から無くし、人類を平和にしたい。

そうであれば、この様な事柄についても、まずはしっかりと理解する必要があるのではないでしょうか。

単なる雰囲気や感情論的な事を述べていても、そうそう人類社会から戦争を無くすというのは難しいと私は考えているのです。そしてそれは端に一つの宗教を広めるとか、一人の宗教指導者の思い付きの行動で変えられるものではないのです。