自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

はじめまして

はじめまして。

 

Hatena Blogを始めました、斎藤単己と言います。

単己とは法華経に「況んや復単己にして遠離の行を楽えるをや。」(従地涌出品第15)ある言葉から引用させてもらいました。

私は二十代から四十代までの四半世紀近く、創価学会の中で活動をしてきましたが、四十代半ばで組織活動から足を洗い、現在に至っています。

人生をそろそろ振り返りが必要な年齢になった今、別に組織で徒党を組んで生きていかなくても良いし、やはり自分の人生、考え思う事は自由でありたいと考えたからです。

ここでは創価学会で経験した事、学んだこと、そしてそこからの自分自身で考え思った事について書き連ねていきたいと思っています。

本ブログのカテゴリーとして以下の様に分類しています。

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もしお時間がある方がいたら、お付き合い頂けたら幸いです。

 

これからもよろしくお願いします。

 

表に出ない不穏なニュース

 

今の世界は、私が若い頃の世界とはかなり様変わりしています。

そんな中ですが。アメリカの著名な超常現象作家である、デビッド・ウィルコック死が4月20日の午前11時05分に、自宅で銃による自殺により死亡したというニュースを見ました。

報道によれば、4月20日午前10時44分にボルダー郡通信センターは、自身がデビッド・ウィルコックと名乗る人物から電話を受けたといいます。通報者は「ここから立ち去らなければならない」「家の左側にいる」と述べ、その後も健康問題や経済的な不安について話し続けたそうです。そして通報者は「こんなことをして申し訳ありません」と言い、保安官らが通報者の自宅の私道に到着する直前に電話を切りました。

午前11時05分27秒、保安官は通報者が自らを撃つのを目撃しました。その後、ボルダー郡検視局は、検視と近親者への通知を経て、死亡した男性を53歳のデビッド・ウィルコック氏と正式に特定した、とありました。

デビッド・ウィルコックと言っても、日本国内ではあまり認知をされていませんが、アメリカではHISTORYチャンネルで「古代の宇宙人(Ancient Aliens)」や「コズミック・ディスクロージャー」という番組では割と知られている人物で、コーリー・グッド氏との対談では特に知られた人物でした。

そんな彼ですが、自殺の2日前には自身の配信するYoutubeでは「生きていることへの感謝」を語っており、また2022年12月11日にはXへのPostで「私は生き続けるつもりだ、自殺する気はまったくない」とも発言し、もし将来に自殺が報じられた場合には、他殺の可能性まで言及をしていたそうです。

しかし今回の件について、ウィルコック氏の家族は「長年のうつ病と圧倒的な借金で苦しんでいた」とウィルコック氏の状況を語り、「彼は自ら命を絶った」と明言しています。

確かに一番身近な家族がその様に言うのであれば、確かに「自死」もあると思いますが、実は私が今回、ウィルコック氏の死の報道を聞いた時、2023年から今年(2026年)にかけて、アメリカでNASAや軍、各研究所に関わる科学者の自死や失踪などが10件以上、立て続けに発生している事もあって、これらは全て近年アメリカで話題となっている「UAP(未確認空中現象-以前はUFOとも呼ばれていました)」の周辺で起きている事であり、きわめて不穏な感じを持っているのです。

代表的な例を少し掻い摘んで紹介してみます。

● Michael David Hicks(NASA JPL研究者)死亡(2023年7月30日)

コメット・小惑星研究で80本以上の論文を執筆した人物ですが、強いんについては公表されておらず、検視記録も確認できません。

● Frank Maiwald(NASA JPL主任研究者)死亡(2024年7月4日)

この人物もNASAのJPL研究所の研究者ですが、検視も行われずに処理されています。

● Monica Reza(ロケット科学者)失踪(2025年6月22日)

この人物はNASAのJPSプロジェクトに関与していましたが、ハイキング中に行方不明となっています。彼は空軍少将であり、AFRL指令会であるMcCasland氏と職務上密接な関係があった人物です。

● William “Neil” McCasland(空軍少将・AFRL元司令官)失踪(2026年2月)

先のMonica Reza氏と密接に関係あったとされる人物ですが、ニューメキシコ州で行方不明となっており、UFO・機密軍事研究との関係から憶測が拡大する中で、FBIが捜査を行っていると言われています。

● Amy Eskridge(実験推進・“反重力”研究者)死亡(2022年)

当初は自死として報道されていましたが、今年になり「11件目のケース」として再注目されています。

この様な多数の失踪や不審死等については、現在、FBIも捜査を進めていて、ホワイトハウスでも正式に関連性を調査中だと発表しています。

 

上記は代表的な事ですが、それ以外にも実はイギリス国防省の元職員であり、イギリスUFO研究の第一人者でもあるNick Pope氏も今年の4月に死亡している事が判りました。死因はステージ4の「食道がん」との事でしたが、これはかなり進行も早かった様で、家族すら「突然の医療的イベント」として発表する程のものでした。

このNick Pope氏ですが、イギリスの”リアル・フォックス・モルダー”とも呼ばれており、先のデビッド・ウィルコック氏の出演していた「古代の宇宙人(Ancient Aliens)」にも出演していた人物で、過去にはイギリスで発生した「レンデルシャム事件」についても再調査をしていました。

 

噂では本年7月にトランプ大統領が、UAP関連の情報開示を行うという話しも在ったりしますが、実際にこの情報開示(ディスクロージャー)が行われるかは判りません。しかしその様な世界的に噂を前にして、その周辺でこの様な事態が発生している事に、実は表には出ない不穏な動きを私は感じて居たりするのです。

 

とは言いながら、日本の国内では表向きこういった報道は一切知らされる事はありません。何しろ日本の中では、UAP(未確認空中現象-過去にはUFOと呼ばれた事)は、未だバラエティ番組のネタの範疇であり、多くの日本人は冗談話の延長線上の話としか受け取る事もありません。

アメリカ議会では公聴会でも議論の遡上に上り、国防総省が動画を公式に発表しても、日本国内ではそういった事は一切、報じられる事は無いですからね。

 

しかし世界の情勢を眺めてみると、既に世界は日本人の認識を越えた動きを始めています。何度も言いますが、今年に入りベネズエラ大統領の身柄拘束や、今現在進行しているイランとの紛争などは、その変化が表出しての事と私は考えています。

そして今回紹介した、デビッド・ウィルコック氏の自死の話題や、NASA・軍・核研究者の死亡・失踪が10件以上発生した事も、実はこの世界の変化に何か関係していての事では無いでしょうか。

 

皆さんはどう思われますか?

 

LOVEと愛という言葉について

今日は少し似つかわしくない記事を書きます。

よく欧米では「LOVE(ラブ)」という言葉を使いますよね。私は映画を見るのが好きなので、暇な時には、配信サービスで様々な映画を物色しては見ています。

そんな中で、欧米の映画のなかでは至高の考え方として「LOVE」という言葉を使います。それは恋人への気持ちだったり、家族や身内、壮大なストーリーの中では人類に対する気持ちとして、この言葉を良く使います。

この欧米の「LOVE」というのは、その淵源はキリスト教にもあると思いますが、この単語は日本では「愛」として訳されています。

この日本には昔から「愛」という言葉はありました。戦国の世では、武将の直江兼続が自身の兜に「愛」という文字を付けていたのは有名な事です。

この「愛」という言葉ですが、その淵源を辿れば仏教に行き着きます。日蓮の文字曼荼羅にも梵字で認められている「愛染明王」なんていうのも、そのまま読めば「愛に染め上げられた明王」なのかなんて思ったりします。

仏教において、この「愛」という概念は、どちらかと云うと「執着」という意味が含まれています。例えば道具や物に「愛着を持つ」とか、「愛憎」なんて言葉には相手を思うばかりに、それが憎しみに変わっていくさまを表現している言葉だったりします。つまる処、好意的な意味合いが含まれる言葉ではありますが、そこの底辺にはどうしても執着という感じが残る感じがあるのです。

そこから考えてみると、欧米で語られる「LOVE」という単語を「愛」という文字に当てはめるのも、少し違うのかもしれないなと最近考える事が度々あります。

何故こんな事を考えているかと言えば、例えば欧米の映画で、「DEEP IMPACT」とか「アルマゲドン」なんかを見ると、そこでの登場人物の言動の中には「LOVE」という言葉がとても多用されていますが、果たしてそれは日本人が「愛」という単語に感じるニュアンスとは少し異なるのではないかと、最近になり感じることがあるからです。

また近年、特にYouTubeに上がる動画の中には、2027年や2030年に人類が滅びるなんて動画もよく見かけますが、そこで今の人類を救済できるのは「愛」なんだ、なんて言葉も多く見かけますが、これとて欧米からの情報を日本に引っ張り紹介している内容も多く、そこで欧米の予言者や未来予知する人が語る「LOVE」という言葉を単純に「愛」と訳しているに過ぎません。

しかし欧米の人達が語る「LOVE」というのは、そこに執着というのは無いようです。ある意味で純粋に見返りを求めずに相手を受け入れ抱擁するというニュアンスをとても強く感じるのです。

ではこの「LOVE」という言葉を「愛」ではなく、もっと的確に表現できる単語というのは、日本に無いのでしょうか。

そこ昔、創価学会の書籍(本の名前は忘れました)の中で、この「LOVE」というのは「慈悲」という言葉であると語っていた内容がありました。この「慈悲」という言葉は成る程「愛」という言葉のような執着という意味合いはありません。
また慈悲とは抜苦与楽という言葉もありますが、相手の持つ苦を取り除き、そこに楽を与えるという意味もあるので、その分、「愛」という言葉よりも「LOVE」という言葉の意味により近しいように思えます。

ただこちらにしても、日本の中では仏や菩薩が衆生に対する想いという意味合いもあるので、この言葉を真に理解する場合には、単に仏や菩薩を救済者の様に考え、そこにお縋りする様な考え方がある内は、やはり欧米の「LOVE」という言葉の意味合いとは異なってしまいますよね。「LOVE」とは単に相手から与えられるだけの事ではなく、それを自分も理解して、周囲に対しても等しく同質な想いを持つことという意味合いもありますからね。

今の人類社会は、実は有史以来、最大のターニングポイントを迎えつつある状況です。日本国内では、テレビや雑誌を観ていても、そんな事は露も感じる事は無いかも知れません。テレビを付ければ芸人の空騒ぎの様な番組や、世界の情勢を「コメンテーター」という解説者の恣意的な角度付きの情報で多少は報じていますが、そんな番組ばかりです。いま世界で起きている事を、日本のなかに居て、政界や財界、ましてや特定国の思惑に沿ったマスコミの垂れ流す情報の中に浸っていたら、それを認識する事も出来ないでしょう。

しかし欧米社会の中では、この世界のターニングポイントを迎える中で、大事な概念として「LOVE」という言葉が語られていますが、日本の中では、それも少し違う感覚で認識されてしまいますよね。

そんな取り留めのない事ですが、今回は少し記事として書いてみました。

蓮蔵坊事件について④

さて、蓮蔵坊事件についてここまで紹介してきましたが、実は日郷と日道の間の争いで収まる事ではありませんでした。

私が創価学会で活動を始めた頃、「日蓮正宗勤行要典」には以下の御祈念文がありました。

「南無日道上人、日行上人等御歴代の御正師云々」

つまり富士の清流七百年の法統伝持は日蓮大聖人から日興上人、そして日目上人から日道、日行へと連なってきたと教えられていたのです。

しかし前回までの記事では蓮蔵坊の住持である日目の高弟は日郷であり、その日目が生涯最後の天奏の際に随伴した一人は日郷でした。また蓮蔵坊(大石の寺の坊)の住持も日郷であり、日道や日行は地頭の南条時綱の裁定によって、蓮蔵坊を継ぐ立場ではなく、日道に至ってはその後に失意の中で病死をした事となっています。

しかし創価学会の中で、日目の高弟である日郷については以下の様に語られていました。

「四世日道上人の時、日郷が蓮蔵坊一帯の地を目師より相伝したと主張し争いを起こし、それいらい大石寺では七十年に渡る紛争が続き、疲弊の果てに顕れたのが(中興の祖)日有上人である」

しかしここまで紹介してきた蓮蔵坊事件の内容を見てみると、これは全くの歴史の認識が歪曲されていた事が解ります。なにしろ当時の創価学会は、大石寺の信徒の団体なので、保田妙本寺を「邪宗の寺院」という認識しか持てておらず、その寺院を開基した日郷もさしずめ邪宗の僧とした理解していません。

またこの蓮蔵坊事件の顛末の資料の多くが、現在は日郷の開いた保田妙本寺の所蔵されており、大石寺には殆ど現存していない事から、結果として歴史的な検証が行えない状況と判断されての事かもしれません。

江戸時代の大石寺第十七世の日精が「家中抄」の中で、この蓮蔵坊事件について歴史的な史実を深く検証せずに事件の顛末を著述していた事も、こういった歴史的な歪曲を更に強めた背景にあるようです。

ただし大石寺の大学匠と言われた堀日亨は、保田妙本寺の資料を掘り起こす中で、この蓮蔵坊事件の真相を知ってしまったようです。しかしながら堀日亨も大石寺の系譜の中の一人であった事から、この事実には口を閉ざした様に思えます。しかしながら富士宗学要集の一部に、この蓮蔵坊事件の一端について「日精の暴論」として日精の家中抄の誤記について注釈をつけていたのです。

◆蓮蔵坊事件の顛末

日郷と日道の間の騒動だけで、この蓮蔵坊事件は収まりはしませんでした。

日郷に対して大石が原の東方を安堵したのは、地頭の南条時綱でしたが、その時綱も歴応三年に没し、地頭職を長男の長時が継ぎました。ちなみに長時の次男の牛王丸は後に出家して日伝となり、保田妙本寺の二代となりました。

この地頭職が変わった事を見て、南条家の持仏堂に居た日道の弟子である日行は、再度蓮蔵坊の奪取を画策しはじめました。しかしこの動きは南条時長が、この当時安房にいた日郷に対して「南条左衛門尉時長証状」を与える事で、一気に日行の動きを封じたのです。

この為に日行とその一派は、その後二十年に渡り、鳴りを潜めざるを得なくなったのです。

その後、日郷は大石の寺の蓮蔵坊の付属状を文和二年四月八日に上野村大衆に与え、小泉の妙円寺で亡くなりました。享年六十一歳でした。

そして日郷の七回忌の時に、日道の下から出て日郷の弟子となった日叡によって、大石に東御堂が建立されました。そしてこの年、南条時長の次男の牛王丸は出家して中納言日賢となりました。(後に日伝と改名する)そしてこの頃から蓮蔵坊と東御堂を合わせ、小規模ながら「大石寺」と称する様になり、その大石寺の管主はこの日伝が保田妙本寺と兼務する事になりました。

さて時代も代わり貞治二年(1363年)、関東管領に上杉憲顕がなった頃に、地頭職が廃止され南条時長は辞職し、上野村の地頭には河東の代官興津法西が兼務する事になりました。

そこで南条家の持仏堂に居た日行は、時長が亡くなったタイミングで南条家の結束をはかり、かつて日興師の坊舎であった大石寺の西側にあった白蓮坊を改修し、蓮蔵坊奪取の為の行動を始めました。

この顛末については、様々な事があるので要をまとめて言えば、駿河の守護の今川氏や鎌倉管領を巻き込んだ騒動となり、日伝と日行、また日伝と日時での騒動となりましたが、結果として日伝側が折れ、日時が蓮蔵坊(大石寺)を得る事で、応永十年(1403年)最終的な決着となりました。

また決着にあたり、日伝は蓮蔵坊にあった様々な資料や宝物については、小泉久遠寺に移していたのです。

◆蓮蔵坊事件か見える事

蓮蔵坊事件を通して日興師の亡くなった後、日目や日郷、日道から日行の歴史的な事柄を追っていくと、果たして大石寺のいう「法統連綿七百年」とか「唯受一人の血脈相承」というのが、この歴史上の出来事の中には、一切見えてこない事が解ります。

そもそも日興師は本六を定め、その後に重須の寺に移り後継の育成に勤めていました。そして本六に定められた日目師は蓮蔵坊の拠を構え、東国の弘教の責任者を命じられていましたが、本六の他の高弟たちも、ぞれぞれの任地を与えられ弘教に動いていました。

また日興師が亡くなった後、時を待たずに日目は天奏に向かいますが、美嚢の垂井の地で客死してしまい、その遺骸は京都に埋葬されてしまいました。そしてその日目に随伴したのは日目師の高弟筆頭の日郷であり、後に要法寺となる上行院を開いた日尊の2人でした。

その後、日郷は大石が原の寺へ戻るも、その後は安房方面の弘教に注力し、後継の人材を育成する為に東奔西走の人生を送っていました。

一方の日道は日興師が晩年に定めた新たな高弟の一人となりましたが、見るべき実績の記録が現存しておらず、日興師の御遺物配分にも預かる事も無いばかりか、重須の寺も日興師の死後に地頭の横車で日興師の御内は排斥されてしまい、日道の後輩が貫首に就いてしまいました。

そこで日道は自身の行く先を見失い、蓮蔵坊に目を付けて様々な事を画策しましたが、日郷からはまともに取り合われる事もなく、結果、日目が拠点とした蓮蔵坊を得る事は叶えられる事なく、病の中で没してしまったのです。

そして日郷と日道がこの世を去り、蓮蔵坊は大石寺となってからも、日道の弟子の日行と更にその弟子の日時、そして日郷の弟子の日伝の間でも争いが続き、結果としては時の権力者の裁定の下で、日郷の弟子の日伝が手放す事で決着が着いたのです。

この歴史的な事実の中のどこに、日蓮・日興・日目・日行・日時という系譜の筋目があるというのでしょうか。

日目は日興師の初期の高弟の中の一人であり、日道は晩年の高弟の中の一人でした。そして実績麺から言えば、日目の高弟である日郷こそが、日興師の跡目を継ぐ資質がある様に見えますが、何故から四代は日行であり、権力側にすり寄り蓮蔵坊をかすめ取った日時が五代目となっています。

まあ信仰の世界から見れば、麗しき血脈相承を夢見るのは良いのですが、こういった歴史的な現実を無視した上で、血脈なき信心とか、それに依る偽本尊論を振り回すのは如何なものなのか。私は大いに疑問を持ってしまうのです。

 

蓮蔵坊事件について③

さて前回では日目の天奏、その高弟である日郷について、また新六として日興師の高弟の位置にあった大石寺四代の日道について紹介してきました。

ここまでの説明で、日興師には日蓮の高弟の六老僧に習い、六人の高弟がいましたが、何故かこの六人の高弟には重須に居を移す前に定めた「本六」と、亡くなる直前に定めた「新六」がありました。

大石寺の三代と言われている日目は本六の一人であり、第四代の日道は新六の一人に当たります。そしてその三代と言われていた日目の高弟の筆頭に居たのが日郷であり、これから話しをする蓮蔵坊事件とは、この本六の一人である日目の高弟と、新六の一人である日道との間に起きた諍いの事を言います。

共に日興門流の中にあり、それなりに中核に居た彼らは何故争っていったのでしょうか。

◆日道の立場について

さて、日道は日興師が晩年に定めた六人の高弟の一人であり、本六の日目の甥として日興師の門下の中ではそれなりに優遇もされていました。そして新六の中の序列では日興師から重須を継承した日代、日澄に次ぐ位置でした。またこの当時、日澄は既に亡くなっていたことから、序列から見たら重須寺を継ぐ立場にあったのは日道であり、重須の寺(重須本門寺)を日道が受けてもおかしくなかったのです。しかし実際には日道の二歳後輩である日妙が地頭の実忠の後押しを受けて重須寺の貫首となりました。

これらの事から、当時の日道の心中はけして穏やかな事では無かったと思われます。

またこれだけではありません。実はこの当時、建武二年(1335年)の五月には、日道の門下であり愛弟子であった日叡が日道の下を去り、当時安房で活躍していた日郷を慕い、その門人になってしまったのです。

これについて「日叡縁起」によれば、日叡は九州日向の領主の弟で、経済的にはかなり恵まれていたと言われています。その上、生来から優れた才能の持ち主と言われており、最初は京都の本国寺の日能の門下になりましたがあきたらず、「大石の寺」を訪ねて日仙の下で学んでいたと言います。しかし日仙が四国の讃岐に下ってしまうと日仙と親交のあった重須の行泉坊の日道の下に師事してきたのです。しかし大石が原の蓮蔵坊にいた日郷という類稀な大人物が居るとの話を聞いて、矢も盾もたまらず建武二年に日道の下を去り、日郷の弟子となりました。そしてその後、日郷と日伝(保田妙本寺二代)に生涯を尽くしたと言われています。

改めて日道について見てみると、確かに日道は新六の一人として日興師の晩年の高弟の一人にはなっていましたが、その業績について、あまり見るべきものはありません。

日興師の御遺物配分では、新六の日代・日妙・日助はこの日興師の御遺物の配分に預かっていますが、日道はこの配分から外されています。この事は、実は日興師の晩年における日道の立ち位置を理解する上で、とても重大な事を示唆していると思われます。またここには日郷に対しての記録もあり、そこでは新六の日助よりも後輩の立場にありながら日郷には刀を配分されていました。

◆重須を飛び出した日道

重須では後輩が貫首となり、しかも愛弟子からも去られた日道は、永年住み慣れた重須の行泉坊を弟子の日運にゆずり、建武二年に従兄弟であった日行(後の大石寺五代)と共に重須を飛び出して南条家の持仏堂に移りました。移ったというと聞こえは良いのですが、要は転がり込んで行きました。

日道と従兄弟の日行は、共に南条家の血筋でしたので、この不遇の立場に置かれてしまった日道達を、上野村の一部の人達は同情し、しばしば日道や日行を訪れては酒を酌み交わし励まして居たと言われています。その内、そんな彼らが目をつけ始めたのが大石の寺にある蓮蔵坊でした。

蓮蔵坊とはそもそも南条家の一族であった日目に寄進したものであり、蓮蔵坊にいる日郷とその一門は謂わば余所者であるから、行き先が無くなり南条家の持仏堂に居る日道や日行が本来蓮蔵坊に入るべきで、日郷門下には出ていってもらったほうが良い。それが日道や日行周辺に集まった上野村の人達の思いとなって行きました。こうして建武二年の暮れ頃から、蓮蔵坊にいる日郷一門への嫌がらせが始まりました。

◆蓮蔵坊事件

この当時、日郷は安房方面の弘教に走っていましたが、蓮蔵坊にいる日郷門下への嫌がらせの事は、逐一報告されていました。

しかしこれを聞いた日郷は、くれぐれも理不尽な仕打ちに対して「狂慮」を起こしてはならないと制戒を定め、日道一派と争う姿勢はとりませんでした。この時の日郷の門下への制戒は、富士宗学要集の五巻に収められていますので、今でも確認する事が出来ます。

この日道周辺からの嫌がらせは続いていきましたが、日郷は彼らの要求、即ち「蓮蔵坊を明け渡せ」という事に応ずる理由はなかったので、馬耳東風の姿勢を取り続けました。しかし建武五年(1338年)の初頭には、日道一派は徒党を組んで蓮蔵坊に押し寄せ、気勢を上げて騒ぎ立てました。ついには日目が美濃の垂井で急逝した折に日郷に蓮蔵坊を譲ったと言うのであれば「譲状」を見せろと日郷に迫ってきたのです。

日道一派がこの様に横車を押して日郷に迫ったのも、日道が地頭の南条時綱は自分達の身内であり、味方につくとの計算があったようです。

この状況に南条時綱は頭を痛めました。それはもし日道を敵に回せば、南条一族の中に不協和音をもたらす事にもなりかねない、しかし日郷の立ち位置は何も間違いの無いので、日道寄りの立場を取れば、正道に反してしまう。

彼は地頭としてこの局面を打開する為の妥協点を模索し、検討をしてみましたが双方の円満解決は不可能であると判断し、遂に意を決して書状を発して日道一派の動きを抑え込むことにしました。それが建武五年に認められた「南条五郎左衛門尉平時綱寄進状」でした。

この書状では大石寺の東方は、南条時綱の所領である間、宰相阿闍梨(日郷)に寄進した場所であると記しました。

この当時、大石寺(大石の寺)では、東側の地には蓮蔵坊の他に蓮仙坊があり、道を挟んだ西側には白蓮坊、少輔坊、理境坊、上蓮坊がありました。しかし建武元年には蓮蔵坊のみ健在であり、他の坊舎は全て空き家の状態で荒れ果てて居たようです。書状による東方の安堵は即ち蓮蔵坊の安堵を示す内容だったのです。

この南条時綱の書状により、蓮蔵坊事件の第一弾はあっけなく幕を降ろすことになりました。この時、日郷は四十五歳、日道は五十五歳の時でした。

日道は建武元年には北山村の地頭石河孫三郎能忠に見放され、連蔵坊を巡る一連の騒動により建武五年には頼みの綱である南条時綱にも見捨てられてしまいました。

彼はかつて日興師の高弟として新六にも連なり、一時は権勢も振るっていましたが、これにより周囲からも冷視されるようになり、翌年の暦応二年(1339年)には大病を患ってしまい、やむなく弟子の日行を南条家の持仏堂に残し、自身は大杉山に籠る事になってしまったのです。そして二年後の暦応四年(1341年)に五十九歳で没したのです。享年五十九歳でした。

この蓮蔵坊を巡る争いはこれで一旦収拾した様に見えましたが、地頭の南条時綱が没した後、また再燃する事になりますので、この蓮蔵坊事件についてはもう少し続けていきます。

 

蓮蔵坊事件に関して②

私が若い頃、創価学会もそうですが、日蓮正宗については誤解していました。それはこの世界で一番正しい教えを奉じている団体であれば、それを指導する立場の人達は、それは素晴らしい人達が多くいて、まあ中には提婆達多の様に私利私欲に目が眩み、組織利用する不届きな人物も偶に居ますが、清浄で正しい組織であれば、そんな輩はいずれ自然に淘汰されていく。

そんな事を本気で信じていました。

何しろ大元の日蓮大聖人は、釈迦をも凌ぐ末法の御本仏なので、日蓮正宗も創価学会も共に「仏意仏勅」の清浄な団体なんだと。

しかし日蓮正宗の歴史を知り、創価学会の歴史を知るにつれ、そんな幻想は吹き飛んでしまいました。日蓮正宗にしても創価学会にしても、やはり人の作る組織であれば、そこには様々な利権も出て来るし利害関係を持った人間関係も存在し、当然そこには組織を利用しようとする人物も出てくるのは当たり前の事なのです。

かつて戸田会長が「青年は政治を監視しなければならない」と厳命したと言いますが、これは何も国政等の政治に限られた話ではなく、日蓮正宗や創価学会についても、その組織を指導し運営する立場の人間を常に組織内で監視する。そんな視点を持たない限り、他の諸団体と何も変わることなく日蓮正宗にしても創価学会にしても、結局のところ組織は食い物にされ腐れていく事は当然な事だったのです。

まして宗祖と呼ぶ日蓮も、鎌倉時代の僧侶であり凡夫ですし、その法灯を継いだと云われる日興師も凡夫です。ましてや在家信徒の創価学会の歴代会長は、出家者でもありませんから、尚更のことでしょう。

こういう至極当たり前の視点を、この蓮蔵坊事件を始めとする、歴史の出来事は教えてくれたのです。

では、蓮蔵坊事件について続けて行きます。

◆日興師没後の宗門

日目は日興師の亡くなった正慶二年二月七日から約八カ月後の正慶二年十月下旬に七十四歳という高齢にも関わらず、天奏のために京都に向かいました。この時、随行者は日目の高弟である日郷と日尊の二名でした。

ここで言う天奏とは、天皇に対して自らの宗派の教えを奏上する事なのですが、日目は日興門流を代表して奏上すべく旅に出ました。

日目は京を目指して急いでいましたが、道中で厳しい寒波に襲われた為に、道中に病となり、美濃国(現在の岐阜県)垂井の宿で亡くなります。これは正慶二年十一月十五日の事でした。
日目の高弟であった日郷と日尊は涙ながらに日目の遺骸を荼毘に付し、日目が「万が一の時には骨を京都に埋めたい」という遺言を叶えようと二人して京に上り、東山鳥辺野にある延年寺に頼み、日目の遺骨をそこに埋葬しました。

その後、日尊は京に留まり後に上行院(後の要法寺)を開きましたが、日郷は日目の遺品を携え大石が原に帰り、上野村の人々や重須の人々に事の顛末を報告し、日目の跡を継いで蓮蔵坊に入りました。この当時、日郷が日目の跡目として蓮蔵坊に入る事に、異を唱える人は誰も居ませんでした。

この時の上野村の地頭は南条時光の五男、南条時綱になっていました。時綱は兼ねてから日郷の人物を慕っていた様で、日目の跡を日郷が継いだことを誰よりも喜んでいたと言われています。この様な状況だったので、建武元年から建武二年迄の約一年半の間、蓮蔵坊では平和な時が続いていたようです。

◆日郷について

ここで蓮蔵坊事件の当事者の一人でもある日郷について少しまとめてみます。
日目の高弟と言われていた日郷ですが、日蓮正宗の信徒団体の創価学会の会員は、この人物について知る由もありません。

こんな事、教学でも宗史でも教えませんからね。

日郷は永仁元年(1293年)、これは日蓮没後十一年頃ですが、八月十五日に越後国蒲原郡で生まれました。日郷の俗姓は太田氏であり、美濃の守護であった源氏の土岐氏の後裔であると伝えられていますが、詳細は定かではありません。

延喜三年(1310年)の正月、七歳の日郷は富士門流の信徒であった金津孫太郎に連れられて「大石の寺」の日世の弟子になりましたが、間もなく日目の目にとまり、望まれて日目の弟子になりました。

日目は日郷を「稀に見る法器」と見て、常に座下において育成すると共に、重須の日興師の元に出仕させて成長を楽しみにしていたと言います。

日目の晩年には日郷は日目に代わり「東国の法華の棟梁」として遺憾無くその力量を発揮して行きました。
元徳元年(1329年〜1231年)に日郷は先ず磯村(現在の千葉県鴨川市)に法華堂を建立し、そこを拠点として日蓮生誕の地である安房方面に弘教の火蓋を切り東奔西走の活動を展開していきました。

この様な状況の中でも日郷は、蓮蔵坊に居る師匠の日目の生活や健康を案じ、折に触れては金銭や薬などを送っていた事が、正史の史料として今でも現存しています。
一方の日目も将来を託す愛弟子の成長と無事を祈りながらも、一日も早く日郷に大石の寺の蓮蔵坊に帰ってくることを待ち望んでいたようです。

◆日道について

さて、蓮蔵坊事件を語るには、もう一人の当事者でもある日道についても語らねばなりません。

日道は大石寺の第四代と呼ばれていますが、彼は弘安六年(1283年)に伊豆国仁田郡(現在の静岡県函南町)の新田五郎次郎頼綱の次男として生まれました。母は南条時光の娘でしたので、日目から見たら甥に当たる血筋となります。

日道は十七歳の時に日目の弟子となり、その後は重須の日興師の弟子へと進み、重須寺では行泉坊という坊舎を構えていました。そして日興師の晩年には日興師の高弟の一人(これは新六と呼ばれ、日道の他に日代・日澄・日妙・日毫・日助かいました)に加えられたのです。

この新六の筆頭は日代でしたが、日代は日興師の甥に当たる人物で、重須寺では養運坊という坊舎を構えていました。日代は年次的には日澄・日道・日妙の後輩にあたりますが、日興師は敢えて日代を後継として指名し抜擢しました。

日興師が亡くなった正慶二年(1333年)には北山村の地頭であった石河孫三郎能忠は既に亡くなっており、その後を嫡子の実忠が地頭となっていました。
この実忠は日興師が亡くなった翌年、建武三年(1334年)に、新六筆頭の日代と、同じく新六の末席に居た日代の甥の日助の二人を、重須寺から地頭の権力をもって追放してしまったのです。
これ実忠による重須寺に居た日興師一族を粛清したと見られており、その後を第二代に日妙を据えてしまいました。

因みにこの時に粛清された日代は、一旦故郷に戻りましたが、後に西山村の地頭である大内氏の庇護を受けて法華堂を建立しました。これは現在、西山本門寺となっています。また日助は東光寺を建立しました。

 

蓮蔵坊事件に関して①

最近、このブログでは私の思索している事を、主に書かせてもらってましたが、書くべきことは他にもあるわけで、今回は日蓮正宗の歴史的な事について、すこし書いていきます。

私が創価学会を離れた理由には、こういった創価学会や日蓮正宗の中で、会員や信徒向けに語られる事のない影の歴史的な出来事を知ると言う事もありました。

私が若い頃に先輩から教わった言葉に「創価学会は新興宗教ではない」という言葉と「富士の清流七百年」、要は日蓮大聖人から連綿と受け継がれてきた教えを信じているのが創価学会なのだという言葉がありました。つまりそもそも創価学会とは日蓮正宗の信徒団体だと言っていたのです。
それが第二次宗門問題で争うようになり、創価学会では「自分たちこそが本当の日蓮正宗で、今の宗門は寺族や代々坊主に乗っ取られている」として、主に男子部の創価班広宣部が、その抗争の前面に立ってきたのです。
そして私もその一員として、法華講や妙観講、古刹寺院の所化や顕正会といった組織とバチバチやり合ってきました。

ただこの日蓮正宗の歴史を知ると言う事は、実は創価学会の中にあった疑念を理解するという事にも通じてくるのです。

結果、それもあり私は創価学会を離れる事にもなりました。

前回は日蓮門下の中の「五一相対」について触れましたが、今回は日蓮門下の日興門流の中で起きた、蓮蔵坊事件について取り上げてみたいと思います。

◆蓮蔵坊事件について

私が広宣部で活動していた頃、ある日蓮正宗寺院の法華講の青年部長が、創価学会の男子部にちょっかいをかけてきて、その対応をした事がありました。そこでは法華講の青年部長の他に講頭も来ていて、相手はやる気満々でした。要は創価学会の邪義を破折してやろう、男子部員の前で創価学会の幹部を叩いて赤っ恥をかかせて失望させてやろうと考えていたようです。

そこで私は対論の題材として「蓮蔵坊事件」を提案すると、法華講側では「蓮蔵坊事件を知っているのか」となり、「それだったら話を止めよう」なんて言い出してきたのです。

この時私はこの題材を引っ込めて、結果としてこの法華講の連中は去っていきました。

そこから見ても、この蓮蔵坊事件というのは、日蓮正宗にとってもかなりインパクトがある話題である事が解るというものです。

◆蓮蔵坊事件までの経緯

大石寺とは、今でこそ日蓮正宗総本山として、かつては創価学会の信徒たちも従えた中心地でもあり、それなりの威容を整えた寺院となっていますが、日蓮正宗が「第三祖」としている日目師が亡くなった頃には、大石寺には蓮蔵坊という坊舎が一つあるだけでした

この辺りを知るには、やはり大石寺開山の日興師の歴史を知る必要があります。

日興師は身延離山した時、富士郡上野村の地頭、南条時光は日興師に自領の大石が原を寄進し、一族の協力を得て取り敢えず宿坊(白蓮坊)を建立して迎え入れたと言います。これは正応三年(1290年)、日興師が四十四歳の事でした。

やがてこの地に日興師の高弟達は坊舎を次々と建立し、日華師は寂日坊、日目師は蓮蔵坊、日秀師は理境坊、日仙師は上蓮坊、日乗師は蓮仙坊を建立して行ったのです。

永仁六年(1298年)、日興師が五十二歳の時に隣村の北山村の地頭、石河孫三郎能忠からの招きに応じて、北山の重須の地に移り住みました。そして正慶二年(1333年)二月七日に八十八歳で没するまで、三十六年の間、この重須寺(現在の北山本門寺)で寺容の整備と弟子の育成に心血を注いで行ったのです。

日興師は大石が原の地には約八年居たと言われていますが、その間に彼は「本尊堂」や「御影堂」は作っていません。これはおそらく経済的な理由によると言われています。

大石が原の日興師は、重須に移る直前に六人の高弟を定めました。これは本六と呼ばれ、日華・日目・日秀・日禅・日仙・日乗の六人でした。恐らくこれは師匠の日蓮が亡くなる際に六老僧を定めましたが、それに習っての事と言われています。ただし日興師は後の亡くなる前にもまた別の六人の高弟を定めていて、そちらは新六と呼ばれていますが、何故、日興師は重須に移る時に敢えて六人の高弟を定めたのか、その理由は明らかにされていません。一説には日興師はこの時に病を得てしまい、死を覚悟する程の状況だったので六人の高弟を定めたのではないかと言われても居ますが、実はその理由は明らかにされていません。

この高弟六人を定めた時、日興師は五人(日華・日目・日秀・日禅・日仙)には、日蓮直筆の本尊を与え、日乗には日興直筆の本尊を与えています。そして彼ら六人にはそれぞれ任地を指示して、独立を促しました。

後世の学者はこの事を、日興師が大石の寺を事実上解散すると宣言したと見る向きもあります。

その後、日興師は当時としては非常に長寿だったので、彼が没する前には日華・日秀・日禅の三人は日興師に先立ち亡くなってしまい、日乗は小泉の法華堂(現在の駿河久遠寺)に移り住み、大石が原の坊舎には日目と日仙の二人のみという状況だったのです。
その日仙も日興師が亡くなってから一年後の建武元年(1334年)2月15日に四国の讃岐国高瀬に出発して再び戻る事はありませんでした。

しかし南条時光の姉を母に持つ日目だけは、地縁の関係から自坊の蓮蔵坊をその本拠として日興から支持された東国に教勢を張っていました。