自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

第51回衆議院議員総選挙が終わりました

2026年2月8日に第51回衆議院選挙の結果が出ました。

今回の総選挙では、立憲民主党公明党が野合して「中道改革連合」を結党し、高市政権へと立ち向かった様に見えましたが、結果として立憲民主党公明党で改選前には167議席であったものが、改選後には49議席へと大激減しました。

しかし元公明党議員の議席数で言えば、改選前には24議席でしたが、今回は比例名簿の上位に優遇された事もあり4議席増の28議席を成し遂げたのです。

でも立憲民主党の議員は143名から21名までの大激減。

これは14%の議員しか生き残れなかったという、これはまさに「立憲民主党ジェノサイド」とも言うべき結果でした。

一方の自民党はと云えば、改選前には198議席でしたが、改選後には316議席という未曽有の議員増となり、連立与党の日本維新の会の36議席と合わせれば352議席という、絶対多数の与党となりました。

今回の総選挙は短期決戦の選挙であり、そこで立憲民主党公明党が野合した事から先が予想出来ないと私は感じていました。

 

tango-saito.hateblo.jp

しかし蓋を開けたら中道改革連合は大惨敗で、中道改革連合として今後存続すら危うい状況になっています。

ここはやはり日蓮の言う通り「一丈の堀を越えぬ」立憲民主党公明党が、「十丈二十丈の堀」とも言うべき政権交代が出来ない事が、改めて証明された様なものですね。

 

今回の自民党の大勝は、これはまごう事なく高市内閣への国民の期待度であり、高市総理の絶大な人気によるものなんでしょう。

自民党の中には、この事を理解出来ていない御仁が今回の総選挙でこの自民党人気が故に残ってしまった事がとても残念な事なのですが、こういう「自民党内の反高市勢力」の議員との「戦い」が、次に高市総理の力量が試される場になると私は感じています。

 

さて、今回の日本の総選挙ですが海外からどの様に見られていたのか。これは1/30に産経ニュースで報道されていました。

 

 

中国共産党としては高市政権を倒す可能性のある勢力として中道改革連合に期待していました。中道改革連合は実体として公明党が主軸になっていますし、岡田克也氏に代表される様な中国寄りの議員も多い事から、こういう期待をしていたのでしょう。

高市総理よりは御しやすいですからね。

一方アメリカとしては高市総理に代表される日本の保守層の動きを注目していました。これは極東アジアにおけるアメリカの影響力を維持強化する上でも、日本の保守層が大変重要と見ていたのでしょう。

そして自民党高市政権は歴史的な大勝利をしました。

これは日本国内では今回の選挙を「生活者ファースト」と「日本人ファースト」という戦いの様に捉える向きもあり、終盤では「ママ戦争を止めて来るわ」なんて言葉もありましたが、国際社会からみたら日本人が中国共産党と距離を詰めるのか、それとも日米同盟をより強固にする方向を取るのか。そういう観点で観られている中で、世界に向けては日米同盟強化を日本人は選択したと見られています。

 

この様な今回の総選挙でしたが、創価学会の中ではどう見ていたのか。

実は先日、創価学会の地区部長会の内容を聞く機会がありましたが、そこで創価学会の幹部が言っていたのは「今回は大勝利だった」という事と、この中道改革連合は今後どの様になるか判らないが、池田先生の語った「中道」の名前を冠した政党であり、これは先生の御心に沿った政党なので、支援した皆さまの功徳は広大無辺だと語っていました。そしてこれからもしっかりと御題目を唱えて行きながら、勇気を持って広宣流布の戦いに邁進していきましょう。なんて事を言っていたのです。

言っている事は頓珍漢なのですが、創価学会の会員は真面目に聞いていましたよ。

あと早速、来年に行われる統一地方選挙に向けて前進していこう、なんていう事もいってましたね。

こんな組織なんで、いまXのPOSTを見ても中道改革連合が1000万票を取ったことで「師弟請願の1000万票の達成」できたとか「中道改革連合の支援をお願いしていると、誹謗中傷や非難される」事が、まさに日蓮鎌倉時代立正安国論を上奏した事によって受けた迫害と同一であるとして、これが法華経に説かれている難だと言う創価学会の会員も発生している始末です。

もう創価学会は投票行動が即信仰活動(信心)になってしまったという感じで、私から言わせればこういう事で創価学会の抱える「政教一致」の問題は、より数段質悪くなって来たとしか思えません。

 

まあ何はともあれ、今回の総選挙で今後の日本の方向性は決まりました。

ただ私は高市総理が政権を取ったとしても、石破政権や岸田政権よりは何ぼかマシであり、中道改革連合に代表される「似非リベラル」政治家が政権握らずに良かったと思っています。

でもこの先日本が直面するであろう問題は、戦後八十年の経験では対処するのが困難な問題が多数あると思っていますので、「高市政権勝利=これから日本は良くなる」とは一つも考えていないのです。

おそらくより根深い問題が噴出してくる事でしょう。

何度も言いますが、日本の国民の意識、これは特に五十代以上に顕著なのですが、そこではいまだ世界を米ソ連冷戦時代の延長線にあると認識している様です。代表的な考え方として「憲法護持」「戦争放棄」を詠っていれば、日本はこの先も平和で安全な国家であり得るという幻想ですね。

ソ連はとうの昔に崩壊し、今はロシアとなっていますが、このロシアはウクライナで力による現状変更を始めてしまいました。またイスラエルパレスチナへの攻撃を行い、アメリカはベネズエラ大統領を力で拘束し裁判にかけるのみならず、イランへの武力行使を匂わせたりしています。

また中国共産党の動きも相変わらずきな臭い事ばかり。

また世界の主要国では移民が大量に流入し、その影響で治安悪化著しく、日本もこの先に大量の移民を受け入れる事を計画しています。

この様な世界の中で、私達日本人はどの様に生きて行くべきなのか。

そこは国民一人ひとりが真剣に考えて行くべき時代に入ってきているのです。だからこそ、一人ひとりが情報を得ながら考えて、その上で議論し国の行く末については真剣に考えるべき時代にはいっているのではないでしょうか。

 

戦争と平和、対話と外交について

高市総理の衆議院解散で現在、国内では総選挙の真っ最中ですが、この総選挙も明日の深夜には大勢が判明する事になります。

今回の選挙で公明党立憲民主党が「野合」して中道改革連合という政党が出来ましたが、そこの話題の一つに彼らの考えている「戦争と平和」について、XのPOST上に多く散見されます。

代表的なものは以下の様なPOSTです。

私が思うに戦後の日本人というのは戦争をまともに学ぶ事なく、ここまで来ました。

日本人の中で戦争を語る時、それは戦場等で起きる悲惨な状況を語りますが、戦争の本質というのは戦場にはなく、国家間の外交にあると私は思っています。

つまり日本人の多くは戦争の本質を知らないという事なのでしょう。本質を知らずに戦争を語っていれば、当然それはピント外れな議論に終始してしまいます。

例えば高市総理の台湾に関する発言にしても、あれは集団的自衛権に基づく個人的な見解についての発言であり、けして日本が台湾や中国に侵略を行うという話しではありません。この台湾有事とは中国共産党が武力で台湾に侵攻したケースの話をしているのです。

要は日本が侵略戦争をする内容の発言ではなく、中国共産党が台湾に侵略したケースを想定していて、その際、中国共産党が台湾と認識している部分には日本の領土である尖閣諸島も入っている状況の話なのです。

日本の領土が入っているという事は、これは詰まるところ中国共産党が日本の領土を侵攻したケースの話をしている訳です。

ここに多くの日本人が戦争や高市総理の発言について、事実誤認いている事が解ります。

戦争については、19世紀のプロイセン(現在のドイツ)の軍人であり思想家であるカール・フォン・クラウゼヴィッツが著した「戦争論(Vom Kriege)」に以下の言葉があります。

「戦争とは、他の手段をもってする政治の延長である」

このクラウゼヴィッツ戦争論は世界中の軍人(主に士官)が学んでいると言われていますが、これはつまり戦争についての基礎的な理論と言ってもいいでしょう。

この著書では戦争を構成する基本的要素としては、以下の3つが挙げられています・

・主体が集団(国家・武装集団)である。
戦争とは個人同士の争いではなく、組織化された集団が戦う。

・武力の組織的使用がある
軍隊・武装組織が計画的に暴力を行使する

・政治目的が存在する
領土、政権、資源、安全保障、独立など明確な目的がある。

つまり要約して言えば、国家間が政治目的を完遂するために行う計画的な暴力の事を戦争というのです。そして国家が行う以上、そこに居住する国民は当然、巻き込まれてしまう訳ですね。

ではこの戦争を回避する為には、どの様な行動が国家として必要になるのでしょうか。

日本国内では共産党立憲民主党、また創価学会でも多くの会員が考えているのは、この戦争を回避する為に「日本国憲法」の「憲法第九条」を死守する事だと言います。しかしこれを戦争の要素の上で考えてみると、この憲法第九条では「武力の組織的使用」を制限しているに過ぎないのです。

戦争とはけして日本国が必ず引き起こす事ではありません。例えば近隣諸国で言えば、日本の場合には中国共産党北朝鮮、そしてロシアがあります。そしてこれらの国が日本の持つ主権(領土、専権、資源、安全保障、独立)を侵す、何らかの政治目的を持った場合には戦争が起きる可能性が出て来るのです。

この事実について見落としていませんか?

そしてその状況が発生した場合、日本とその国との間では「外交交渉」が始まりますが、その「外交交渉」が決裂すれば戦争が起きてしまいます。

現在の日本にも「武力」があります。これは自衛隊ですね。しかしそれはあくまでも「専守防衛(守り専用)」の武力でしかなく、専守防衛の大前提として日本が攻撃を受けるという事でしか動かす事は出来ない武力なのです。

過去の戦の歴史を見てみると、国家間の戦争もそうでしたが、日本の歴史で例えば戦国時代を振り返って見ても、先制攻撃を受けるという事は、初めから劣勢に立つことになりますので、「専守防衛」で国を護る場合には、そこにはより周到な準備と体制を常に整えていないと、この劣勢を挽回する事は出来ないのです。

つまり実際の戦争に置いて、自衛隊は初めから不利な戦いを強いられる組織なのですが、この事実を日本国民はどれだけ理解しているのでしょうか。

そこでこの戦争を起こさないために必要な事は何だと思いますか?

それは他国よりも優勢な外交を取るだけの外交力であり、そこには当然、タフネゴシエーターである外交官や政治家が必要になります。しかし過去を見た時、例えば岸田内閣や石破内閣の時代の政治家に、それだけの外交に指導力を発揮できる政治家がいたとは思えません。

岸田総理はG7の広島サミットでも他国首脳にまともに相手にされていたとも思えませんし、石破総理は同じくイタリアで開催されたG7サミットでは、欧州の首脳がアメリカのトランプ大統領との交渉をどうするのかについて打ち合わせを行っている中、そこに呼ばれもしませんでした。

要はあまり外国首脳からも当てにされない政治家だったんですね。

少なくとも高市政権では高市総理やその周辺に、若干の人材はいる様に思えますが、しかしこれでも全然足りていないと思いますよ。

この事から考えてみるならば、国民が本気でこれからの日本の平和を望むのであれば、この日本の政治家の人材不足にこそ危機感を感じるべきであり、あわせて日本の外交官の人材不足に危機感を感じるべきなのです。

またこの平和を得るために「対話しお互いを尊重し、平和な日本を作る」という言葉もありますが、戦争を回避する為に必要なのは「対話力」ではなく「交渉力」なのです。

「対話」と「交渉」の違いを理解している人が、今日本の中で平和を語る人たちの中で、どれだけいるのでしょうか。

戦争が「政治目的が存在する」以上、これは互いの国家間の利害が存在する訳です。その利害を相手国との間で、どれだけ互いの権利主張の中で、落としどころを探して互いに納得できる形に出来るのか。そこは「交渉(ネゴシエーション)」でしか無いのです。

「対話」とは互いの想いや心情、そして立場を理解しあう為に行う事ですが、「交渉」とはそんなレベルの話ではありません。それはお互いに国家という組織とその権利を背負った上で行う「言葉の戦争」と言っても良い事なのです。

今の日本の政治家の中で、特に中道改革連合の政治家に、そんな交渉を行える「タフ・ネゴシエーター」が居るとも思えませんし、これは自民党の政治家でも同様な事が言えるでしょう。

また外務省の外交官僚の中でも、そんなネゴシエーターが居るのでしょうか?

これが不在であるという処に、実は日本の国の抱えている平和へのリスクは存在するのであって、そこを「日本国憲法」「憲法第九条」「対話で相互理解」で回避できると認識している事自体が、今の日本社会が事実誤認をしていると私は感じているのです。

 

いま選挙では各政党が様々な主張をしています。

日本人としては、これからも平和な日本でありたいのであれば、この政治家を真剣に選択をしなければなりません。政治家を鍛えるのは、選挙毎に行う政治家の選択であり、良い政治家は当選させながら、資質の無い政治家は厳しく落とせる国民でなければなりません。

そしてその真蹟眼を国民が持つためには、情報リテラシーを持つことも大事ですが、その基礎となる歴史観と哲学性を持たなければならないのです。

でも今回の総選挙でXに見える様々なPOSTを見ていても、そこが醸成されているとは全然感じえないのです。

私はそこにこそ、大きな危機感を感じているのです。

 

創価の広宣流布観はおかしい

さて、昨日から衆議院選挙が始まりました。

ネットの世界でも実に騒がしくなってきましたが、そんな中でも創価学会として選挙活動が活発化していますね。

私の嫁はいまだ学会活動家です。

その嫁が先週に同時中継の地区部長会に参加して、なにやら原田会長の御託宣を聞いてきたらしく、そこには公明党の斎藤前代表も登壇していたらしいです。

また今週になって地元組織の地区部長会が、リモートで開催されていました。

私にとっては、どうでも良い事なのですが、リモートで行っていると内容が駄々洩れで聞こえてしまうのです。そこでは私の男子部時代の後輩が壮年幹部をしていますが、彼は「中道改革連合を応援する事が、大事な広宣流布の戦いなのです」なんて事を指導していました。

アホかと。。。

私からすれば、この後輩も役職を得て幹部となり、焼きが回ったなと思いましたが、最後に出てきた県長(私と同じ時期に県幹部をしていた御仁)も同じような内容と、おそらく中央から来たであろうファックスを棒読みしながら「この選挙戦で福運積んで宿命転換の戦いを!」なんて締めていました。

こいつらは何を言ってんだ?

どこまで創価学会本部は、何も考えずに信心だと妄信した会員を利用するのか。

また利用される会員も会員で、こんな妄言をいつまで「信心」だと信じて唯唯諾諾と信じて「集票マシン」として利用され続けるのか。

このリモートの地区部長会を聞いていて、私の中ではいら立ちが大きくなったのです。

落ち着け落ち着け。。。

 

私は二十数年前、創価学会の活動の場から足を洗いました。
その経緯は以下の記事で以前に書いています。

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この時には先輩だった支部長には「自民党公明党は利用されている」と意見を言うと、その先輩は「違うんだ、公明党自民党を利用しているんだ!」なんて言っていました。

でもどうでしょうか。
自公政権下では公明党は常に「下駄の雪」と揶揄されて、細かい実績はあるかもしれませんが、国家の方向を決める事については、全て自民党に振り回されっぱなしでしたよね。

中道改革連合になってから、公明党新代表となった竹谷とし子女史は「子供達を戦争に送る事があってはいけない」「平和な日本の為に中道改革連合を」みたいな事を街宣で述べていましたが、私は忘れていません。

安倍政権時代、集団的自衛権の問題で騒がれる中、自民党と安保法制を可決させるために動いたのは公明党であり創価学会だった事。

当時、公明党遠山清彦氏は日本会議の会合に参加し、改憲活動に公明党として協力する事を述べた事。

また昨年から高市総理の台湾に関する発言について、公明党は立憲民主と共に騒いでいましたが、高市総理の発言の基本には、安保法制がしっかりと下敷きとして存在している事であり、公明党はこれを他人事の様に非難する資格は本来無いのです。

まるで中道改革連合に参加をしたら、過去の自分達の行いを無い事の様に発言する公明党議員の姿には、正直、激しい憤りと幻滅しか感じえないのです。
(まあ、そもそも公明党議員にはとっくに幻滅してはいますけどね)

 

またこんな茶番劇な様な政党の野合を「広宣流布」と絡めて会員に対して、平気で指導する学会幹部も学会幹部ですよね。

広宣流布」とは、そもそも法華経に説かれた言葉であり、それは末代の世までこの法華経の思想を人々の中に説き続けて、悪鬼や魔民が騒ぐ事の無いようにしていきなさいという言葉でした。

しかし日蓮正宗の時代から、法華経の思想が組織の拡大と変質されていたのです。

そして創価学会としてもこの変質した「広宣流布観」そのままに、創価学会の教勢拡大を「広宣流布」と会員に教え続けました。

だから私が青年部終わりの時代には、この創価学会の教勢拡大の一つの目印として、公明党の支援拡大を述べ、公明党を支援する人であれば創価学会の思想のシンパシーを持つ人だと言い、だから選挙戦でも公明票の拡大が大事だなんて創価学会では指導をしていました。

当時、池田大作氏は言っていましたよね。
公明党が1、000万票取れる社会になったら、この日本はどうなるのか楽しみだ」

 

では中道改革連合の票数が増えたら、果たして「創価学会の教勢拡大」につながるのでしょうか?

所詮は、選挙という政治闘争の上での野合であり、そこで新たに立憲民主支援者の票が上積みされたとして、それはけして「創価学会の思想のシンパシーを持つ人」なのでしょうか?

 

私は違うと思いますけどね。

彼らは単に立憲民主の主張する社会、それは立憲民主主義と言っていますが、リベラルで多様性という言葉を述べていますが、日本社会を弱体化させる思想を持つ人たちに過ぎないと思いますし、それが創価学会の思想と同じとは到底考えられません。

 

またそもそも「広宣流布」という言葉が求めた事は、組織の教勢拡大では無いのです。そこにあるのは、思想運動であり、現代の文明の中に法華経の説く思想をどの様に展開し、根付かせていくのか。そういう事を「広宣流布」というのであって、そんな党利党略や宗教団体の御都合主義の活動は広宣流布とは言わないのです。

しかし真面目な創価学会の会員たちは、広宣流布の何たるかは信濃町の学会本部が決める事であり、自分達はその指示に従う事こそ、仏法本来の活動だと誤認しているのです。

 

そんな事をしていても、日本という社会を混乱させ衰退させるだけなのに、四半世紀も自公連立政権の結果を見て、何故気づきもしないのでしょうか。

 

創価学会の会員も、もう少し教学を学びなおして、自分達の行動を冷静に見つめ直して欲しいものだと思います。確かにそんな無知蒙昧な創価学会の会員を利用する、原田会長を始めとした創価学会執行部にも問題がありますが、騙される側にもそれ相応の責任がある事を少しは自覚して欲しいものだと思いますよ。

 

中道改革連合の動きと、広宣流布は何も連動する事では無いのですから。

 

衆議院が解散しましたね

本日、衆議院が解散しましたね。

これから2/8に向けて選挙戦が開始されます。

高市政権」の支持が得られるのか、それとも「中道改革連合(公明党立憲民主党)」が生き残れるのか、それはこの選挙結果に拠る訳で、今回の選挙戦は私が思うに結果が見えずらい選挙と思います。

ここからは私の個人的な意見です。

岸田政権や石破政権では、「多様性」とか「外国人の受け入れ」などが積極的に行われ、様々な問題が起きていました。この当時の私は自公連立政権がさっさと終わってほしいと思っていましたので、ある意味で立憲民主党が軸となり野党を糾合してでも、政権交代して欲しいと思っていました。

外国への資金のばら撒き。

例えばウクライナ世界銀行へ借金する際、日本はその保証国としたのは岸田政権でしたね。石破政権時代にも、インドへ資金援助を行っていました。これはいわゆる「ばら撒き」と避難された行動でした。

それ以外にもLGBTQが推進され、男女共同のトイレが物議を醸した事もありますし、国内で中国人が好き放題にやったのも、この自公政権でした。

もうこの辺りの事を書きだすと止まりませんが、とにかく日本人の税金を、時の政権が日本人以外に好き放題使っているという事に、何とかならないものかと思ったもんです。

そんな事から政権交代を求めていましたが、肝心かなめの立憲民主党も頼りなく、内閣不信任案を提出するまでには及びませんでした。要は立憲民主党自身、次に選挙をすればぼろ負けになる事が見えていたのでしょう。国民民主党や参政党が意外にも議席を伸ばしていきましたからね。

そんな中で「日本人ファースト」という言葉が出てきましたが、これは恐らくこういった自公政権への嫌気が出て来たからでは無いでしょうか。

日本人の中で貧困格差が開く一方、政府は中国人を始めとする違法移民を優遇する様な出来事が多くあった事から、国民の中にもそういった意識が出始めたのかと思います。

そんな中で昨年10月に高市政権が発足しましたが、同時に自公政権は解消されました。

するとこの「日本人ファースト」の国民感情に少し寄りそう様な動きも出てきましたよね。だから高市政権の支持率も異常な高支持率を維持しているのではないでしょうか。

そこで今回は公明党が軸となり、立憲民主党を取り込み「中道改革連合」を衆議院でのみ結成、「日本人」ではなく「生活者ファースト」なる言葉を述べて、議席を取りに来ました。

要は「日本人」ではなく「日本に居る人たち(違法移民や外国人居留者を含む)」を大事にしますよ、という事なのでしょう。

またこれは公明党創価学会も実にこ狡く、立憲民主党は「就職先確保」だけを見て野合した勢力と言ってもいいでしょう。

 

選挙とは所詮、国民の「民意」によるものです。

私が個人的な考えを開陳したとて、それを選択するのは「国民」なので、そこは判断を待つしか無いのです。

 

しかし、とは言っても「国民」の判断の基準も良く解りませんからね。

例えば石破元総理の事を考えてみましょう。

石破総理は日本の政治家ではありますが、彼を政治家足らしめているのは鳥取1区の選挙区ですよね。

これは鳥取市倉吉市、岩美郡、八頭郡、東伯郡三朝町ですが、全国でも有数に有権者が少ない選挙区です。

彼が自民党総裁になった時、国会の場において「公約というのは私が言ったところで守られるものでは無い」という陳発言をした事は、当時話題になりましたが、その後の国際会議の場の行動にしても言動にしても、けして日本の国益になっていない行動も多く見受けられました。

トランプ大統領が日米首脳会談後の共同記者会見で「石破総理」と呼ばす「日本の総理」と呼び、その席ではみっともない姿を晒された事は、いまだ記憶に新しい事ですね。

これは当時のマスコミやネットでも政治家の資質について、様々と叩かれたのですが、そんな彼を政治家として推しているのは鳥取1区の有権者であり、それは国民全体の意思が反映された結果はありません。

要は国政や国際政治で幾ら「政治家として資質が無い」と評価されようが、鳥取1区の選挙区で当選さえすれば、政治家としての年季も積みあがり、日本国内の国政の中では、それなりの位置に着いてしまいます。

これは岸田元総理についても同様です。

G7の席上で各国首脳の会話の輪の中に入る事も出来ずにきょどった動きを見せたり、また長男が首相公邸で好き勝手に写真撮影をさせて反感を買いました。

またウクライナの保証国になったのは、私は大きなリスクを日本に背負わしたものだと思いましたが、この岸田元総理にしても広島1区(広島市中区・東区・南区、安芸郡の一部)の有権者が彼を政治家としているのであって、そこに国民全体の意思が反映されるものでは無いのです。

要は「国民の判断」とは言っても、現実的には各選挙区の有権者の判断が軸になるのであり、そこには地元主体の利益誘導とは浪花節的な人間関係の判断が強く働く訳で、それは「国民の判断」とは言い切れないものがあると思います。

まあ制度的な問題なんですけどね、こういった事は。

 

本来は「国政選挙」なのですが、現実には各選挙区毎の有権者の判断で候補者が決まるのですから、今回の選挙、一体どの様な判断が下されるのか。

今回の衆議院選挙の動向について、注視をしていきたいと思っています。

 

人間主義という言葉について

高市総理が衆議院解散を決断し、日本の国内政治が賑やかになってきました。

こんな中で立憲民主党は自分達の議席の生き残りをかけて、公明党の軍門に下り「中道改革連合」に参加しています。

立憲民主党支援者の人の中には「公明党が解党して重い看板を下ろして中道改革連合に参加したという重い決断」なんて誤解して発言している人もいますが、今回の中道改革連合については、公明党は確かに看板を落としたものの、その「中道」という思想の大元は創価学会池田大作氏が提唱した「中道」という事であり、いわば公明党は看板よりも実を取り、まんまと立憲民主を取り込んだ事に成功したと言っても良いでしょう。

特に立憲民主党で中道改革連合に合流した議員達の中には、あまりこの事を理解せず、「渡りに船、創価学会から票が貰える」と安易に参加している人も多く見受けられます。

何故「見受けられるか」って?

だって国家安全保障の考え方とか、原発再稼働に関する考え方について、結成前に徹底して議論を尽くしておらず、ある立憲民主党の議員は安保法制反対、原発再稼働反対を主張してきていたにも関わらず「参加したら中から変えていきます」なんて平気に発言している人もいますよね?

「中から変える」というのは、中で議論を巻き起こすつもりなんでしょうが、政策の基本的な事で議論を巻き起こしたのであれば、結果、政党としては解党してしまうのは、過去の「新進党」をみれば明らかではありませんか。

この結党時の齟齬は、いずれ政治活動の中で「中道改革連合」の中で細かいヒビとなり、いずれは決裂する事を暗に暗示していると私は感じています。

何しろ「新進党」もそんな感じで解党しましたらかね。今の人はもう三十年以上前の「新進党」の事を忘れてしまったのではありませんか?

 

私が今回、ここで書きたいのはそういう事ではありません。

ちょっとネットで拾った以下の言葉を見てください。

 

おそらくこの人は中道改革連合の支持者ですが、公明党の支持者でもある人でしょう。この中に「【中道】って、人間主義なんだ」とあります。

人間主義」とは創価学会が良く使う言葉ですが、恐らく創価学会の中でも言葉として「人間主義」を使いますが、学会ではその言葉の意義を深堀せずに使用しています。

今回はこの「人間主義」という言葉について、少し掘り下げてみながら、政治の上における「人間主義」と、これから先の人類社会における「人間主義」について思いを馳せてみたいと思います。

お時間のある方は、お付き合いください。

人間主義の核心

人間主義とは「人間の尊厳や理性を重視」するという事と言われていますが、まず一般的な事から言うと以下の事がその核心にはある様です。

 ・人間は価値ある存在である
 ・理性、良心、創造性を信頼する
 ・神や権威ではなく、人間自身の判断を重視する
 ・個人の尊厳、自由、教育を重んじる

この人間主義とは、何もいきなり発生した思想ではありません。そこには歴史的な背景の上で、人類が思考を重ねて来た歴史があるのです。

古代ギリシャ・ローマ時代
ソクラテスプラトンアリストテレスなどが「人間の理性」や「徳」を探求した事が人間主義の源流となる。

・中世の神中心社会への反動
中世は神の意思が絶対で、人間性は二の次に扱われました。しかしそこからの離脱として人間主義が登場しました。

ルネサンス人文主義
古典研究を通じて「人間の価値」を再評価した運動。この運動ではエラスムス(「痴愚神礼賛」と言い、教会や社会の愚かさをユーモア交えて風刺するもの)等が代表的な事でした。

・近代の啓蒙思想
カントらが「人間の自律」「人間は目的であって手段ではない」と主張し、これが現代の人権思想の基礎となりました。

一般的に言われる「人間主義」では、こういった歴史的背景の下で提唱されている事で、現代では以下の分野などに展開されています。

 ・人権
 ・民主主義
 ・教育
 ・対話
 ・科学的合理性などを支える価値観

またこの「人間主義」については「宗教的ヒューマニズム」「世俗的ヒューマニズム」「実存主義ヒューマニズム」と多様な分野に展開されているのです。

創価学会のいう「人間主義

さて、そもそも「人間主義」という明確な概念は、東洋思想の中にはありません。東洋思想の基本である仏教では「縁起思想」はあっても「人間主義」というのは存在しないのです。

先の述べた人間主義とは、基本的にキリスト教を思想の基盤(要は人間は神によって創造された存在である)として派生したものであり、そもそも仏教には存在しない概念です。

またジャータカ伝説を見ても解りますが、仏教では「輪廻転生思想」もありますので、人は必ずしも人に転生する訳ではなく、動物にも転生する事もあると言われているので、殊更「人間」だけを取り上げて、それを「最高尊極な存在」とする思想では無いのです。

ここを解っている創価学会の会員は実に少ないですよね。

しかしそこに池田大作氏は「人間の尊厳」を絶対的価値とする考え方を提唱しました。そしてそれは「人は仏性を内在する」という法華経の思想を根底にして展開したのです。

(まあ、実際に池田大作氏が考えた、と云うよりも周辺側近の人が組み上げた思想だとは思いますが。。。)

この池田大作氏のいう「人間の尊厳」とは
 ・国家
 ・イデオロギー
 ・宗教組織
 ・経済的利益
といった事よちも最終戦される最高価値として「人間」があるという思想になります。

人間主義から中道思想への展開

そして池田大作氏はこの「人間主義」をベースとして、仏教の「中道思想」を捉えなおしました。

仏教の中道とは
 ・苦行主義
 ・享楽主義
この両極端を越えた「悟りの道」として「中道」という事を説いていますが、池田氏はこれを「社会・政治・教育・平和」に応用したのです。

この池田氏の中道思想(中道主義と呼んでも良いでしょう)では、以下の事をその価値観の中心に据えています。

・人間の尊厳
政治・社会の判断基準は「人間の幸福」に置く

・平和主義
対立をあおるのではなく、対話と協調を重視する

・民衆中心
権力者ではなく、庶民・生活者の視点を基準にする

・合理性と柔軟性
イデオロギーに縛られず、現実に即した判断を行う

そしてこれが公明党の「中道主義」の思想的基盤にもなっていると言うのです。

一般的な政治用語としての「中道」とは、左右の中間であり穏健派という意味合いで使われますが、そこが大きく異なるところなのです。

 

とまあ、ここまで「人間主義」と公明党のいう「中道主義」について簡単にではありますが、まとめてみました。

しかしこれって先のネットの言葉で言う「人に優しく、あたたかな政治」の実現に寄与できる思想なのでしょうか。

公明党創価学会の文化部から始まり、公明政治連盟、そして公明党として日本の政治の世界で動いてきました。しかしそこで提唱した「中道政治」が日本の政治に根付き実現してきたかというと、これがまた全然実現していないのが現実なのです。

例えば「人間の尊厳」という事で、全ての判断基準は「人間の幸福に置く」と言っていますが、この幸福という概念も実に曖昧模糊な内容ですよね。これは創価学会でも過去から言っていた様に「相対的幸福」と「絶対的幸福」なんて言いますが、人がそれぞれ幸福を感じる事にも大きな差異があります。

例えば極端な例ですが、公明党議席を増やして「幸福感」を感じる人も居れば、逆に「敗北感」「絶望感」を感じる人が居る訳です。

要は人が幸福感を感じる基準すらままならないのに、そこに「人間の幸福を置く」なんて事が出来る訳がありません。

また「平和主義」と言い、対立をあおるのではなく対話と協調を重視する、なんて言っていますが、果たして公明党議員や創価学会の会員が実践できていますか?

また民衆中心と言いますが、政治の世界では「最大多数の最大幸福」を求めますよね。その上で必要であればマキャベリズムの思想も必要となってきます。これに近い考え方には「共産主義」もありました。そこでは人々の貧困格差は富の格差によると言う事で、それが起きない様に国家が富を分配すると。でもこの共産主義は失敗しているではありませんか。
「民衆」とひとくくりにしますが、その民衆の中には多様な価値観があるのですから、全てを余さず幸せにするなんて出来ないのです。政治が民衆に行えるとしたら、富の分配を出来るだけ公平公正に行う努力をする事でしょう。

あと合理性と柔軟性を言いますが、政治の世界ではイデオロギー(世界の見方、価値観の枠組み)で動きます。そんな政治の世界でイデオロギーを超える事を、果たして公明党は結党以来、実現できているのでしょうか?

また政治では国家の運営を執り行いますが、昨今でも言われる「環境問題」「資源問題」の解決は、人間中心の思想だけで解決する事は出来ません。共存する多様な生物種や環境の事を考慮するのに「人間最優先」だけで解決できる事では無いのです。

 

要は端的に言えば、「人間主義」「中道思想」をスローガンとして公明党は利用してきましたが、それを本気で政治や社会に展開するという「思想戦」を蔑ろにしてきたのです。結果として耳障りの良い言葉で民衆を扇動し、特に自公連立政権の時には創価学会の会員を扇動して様々な政局で利用してきたに過ぎません。

そして今度は立憲民主党の政治家を巻き込み、ここでも創価学会を同じく扇動して利用しようと目論んでいるのは見え見えではありませんか。

公明党議員もそうですが、創価学会の会員も、もう少し賢明にならないと、この流れを止める事なんて難しいのではありませんか?

 

今回の衆議院選挙を迎えるにあたり、この事をもう一度考えて欲しいものですね。

 

「中道改革連合」に見る広宣流布観の変化

さて今回は時事ネタを少し書いてみます。

高市総理が今月末(2026/1末)に衆議院を解散し、2月初旬に総選挙を行うという報道が出ると共に、立憲民主党公明党が解党し、あらたな政党をつくるという報道がなされました。その政党名も。

「中道改革連合」

だそうです。

この報道を見た時には、公明党は過去の新進党の夢をもう一度と考えているのか等、様々な事が頭を過ぎりました。

「何故この時期に高市総理は衆議院の解散・総選挙をするのか」
「予算案成立を待たずに解散に踏み切るのはどういう理由があるのか」

これについては様々な憶測が流れていて、特に野党の中には「国民無視の暴挙だ」とか様々な批判が噴出しています。

この理由について高市総理は公に語ってはいませんが、以下の動画の内容は興味深い内容だったので、一応、共有をしておきます.

 

www.youtube.com

 

まあこれは事実では無いかもしれませんが、見方としては興味深い角度だと思いました。

ただ驚いたのは、立憲民主党公明党が一つの政党となり、高市政権に対抗しようとしている事には驚きましたね。

何故なら立憲民主党は前回の総選挙でも議席を伸ばす事も出来ず、参議院選挙でも自民党議席減となって時にも、野党の結集軸となり内閣不信任案を提出する事が出来なかったのですが、これは今の状況で総選挙に踏み切ると、確実に自分達の議席が減少するからだというのが、世間一般で言われている事です。

また公明党にしても2005年の衆議院選挙の時には、899万票を獲得していましたが、直近の2024年の衆議院選挙では596万票、そして2025年の参議院選挙では521万票と獲得票数の下落に歯止めが掛からなくなっています。

この2つの政党が、互いの懐(要は集票力)を当て込んで政党化しても、果たしてどれだけの議席を確保できるのでしょうか。

確かに全国を見れば、各選挙区でこれまで自民党の候補者に1万~2万票の組織票(創価学会票)があったと言われており、それが対抗馬の立憲民主党に流れたら、それなりに立憲民主党議席が増えるという目論見が立つのは解ります。また各比例代表ブロックの上位の議席公明党議員に渡す事をすれば、公明党にしても組織票にプラスして立憲民主党の票数が得られるので、公明党議員もそれなりに確保できるのでしょう。

しかし果たしてそのような単純な算数で、次回の総選挙の票は動くのでしょうか?

確かに現在の高市政権の支持率の高さは、異常とも言える数字となっています。ただそれが即自民党の支持率につながって居ない現実もありますし、自民党議員の中には立憲民主党よりもリベラルな国会議員や親の七光りで何の役に立っているんだという議員、中には高市総理に対して面従腹背の様な議員もいますので、彼らが単純に高市政権の高い支持率の恩恵を受けられるとも思えず、且つ選挙区で今までは自公連立の枠組みの中で創価学会票があったから安閑と議員になれた人達もそれなりに居ます。

それが今回「中道改革連合」で、公明党創価学会組織票が自民党から立憲民主党の候補に動いた場合、そういった「力の無い」自民党議員は落選を余儀なくされるでしょう。

しかしそんな選挙区に於いても、自民党立憲民主党候補以外の「第三極」の候補として、例えば参政党候補者や国民民主党の候補者がいた場合、中道改革連合の目論見は外れる事も考えられます。

要は次の総選挙の結果は、誰にも読めず、大きな政界再編の可能性を含む選挙になってくると思われます。

高市総理も実に大胆な手を打ってきたものだと思いますね。

ただ私は日蓮を信奉している一人として、日蓮が残した言葉を思い出します。

「一丈のほりをこえぬもの、十丈二十丈のほりをこうべきか」
(種種御振舞抄)

ここで日蓮が行ったのは一丈(1.8メートル程度)の堀を飛び越えられない人が、18メートルや36メートルある堀を越える事は出来ないだろうという事です。

公明党にしても立憲民主党にしても、次の政権担当するにあたり、何時もの事ですが実に耳障りの良い事を言っています。しかしながら公明党にしても政権与党に四半世紀以上居ながら、この国を豊かに強くも出来ていなければ弱体化を進めていたではありませんか。これは立憲民主党も然りです。時の政権を批判はしていても、具体的に何か実績があったのでしょうか。

そんな彼らが「野合」したとして、果たして日本を良くする事が出来るのでしょうか?

高市総理は少なくとも総理大臣就任後に、国民の顔を少しではありますが、上向きにさせて来たのは事実です。

まあこれらの事を、ここで幾ら語った処で、所詮は「絵にかいた餅」に過ぎない事から語る事は止めにします。結果は総選挙後に判明する事ですからね。

ただこの「中道改革連合」に公明党が舵を切った事は、過去に創価学会の語っていた「選挙の為の広宣流布観」を明確に変えた事を示していますので、その点について書いていきます。

 

私が青年部時代、これは2005年の頃の話です。

いま「#RICE」なんてハッシュタグつけて、X上でこの「中道改革連合」を支援しようとする人たちの大半は知らないと思いますが、この私が青年部当時は「夢の1,000万票」と云う言葉がありました。これは公明党が「1,000万票」取れる時代になれば、日本の政治は公明党が舵を取る世界になれると、創価学会の中では言っていました。

またこの「1,000万票」の意義は、公明党支持者は必ず創価学会の支援者でもあるので、それは即ち創価学会広宣流布バロメータとなるという事で、1,000万票とは1,000万人の創価学会シンパが存在する事になるという理屈だったのです。

だから創価学会公明党の支援をお願いする事は、創価学会の理解者を増やす活動であり、広宣流布の一環なんだと説明していました。

「舎衛の三億」という言葉が創価学会の中にはありましたが、これは国民の1/3が創価学会の会員になり、創価学会の信仰をする事を意味していました。その為にも政治という分野を通して創価学会の勢力を拡大する。

これが創価学会として選挙に関わる大義名分だったのです。

しかしこの得票数のピークは2005年の総選挙までであり、それ以降、公明党の得票数は下落の一途を辿ってしまい、現在では540万票を獲得できるか、出来ないかという状況まで凋落してしまいました。

これは過去の言い分を引用すれば、創価学会の理解者の減少が止まらないという事にもなりますので、それまで関わった活動は一体何だったのかという事になってしまいます。

そして今回、公明党として票数が獲得できない事から、立憲民主党という、過去に公明党が「叩き潰せ!立憲・共産」と替え歌まで歌った政党に、この獲得票の補完まで依存する状況になってしまいました。

これでも創価学会の活動家や幹部達は、選挙戦を「広宣流布の戦い」と云えるのでしょうか?

私は言えないと思います。

創価学会として小狡いのは、以前は獲得票数を誇り、選挙の度に票数で「大勝利」を宣言していたのが、今では獲得議数をもって「大勝利」としている事です。これでは票数限は見えなくなりますから、まさに過去の発言に対する隠ぺい行為と言ってもいいでしょう。

いまマスゴミの報道を見ると、公明党支援者の声として、如何にも女性部会員という人が「納得は出来ない事もありますけど、自分の中でしっかり受け止め支援するしかないです」なんて報道も為されていますが、これだけ創価学会の主義主張の軸がずれ込んでいるにも関わらず、創価学会の活動家諸氏はこの「中道改革連合」を真面目に支援し、票集めに奔走するかの姿を見せています。

それが果たして「創価学会のシンパ」の拡大につながって居るのでしょうか。

私から見たら、何時まで創価学会公明党を通じて政治家たちから自分達は「集票マシン」として利用され続けるのかと思いますが、多くの創価学会の活動家たちは、政治の事ですら「創価学会の信仰」と教えられているので、そこに疑念を挟む事は出来ないのでしょう。

 

元々は「創価学会の理解者のバロメーター」「創価学会理解者の拡大」としての選挙活動が、今では日本の政治家の中で、自分達が議席を維持するための「集票マシン」として利用されている現実に、是非とも目を向けて欲しいと思います。

 

様々な事を書きましたが、今回の総選挙。もし行われた場合には、これからの日本の動きを決める極めて重要な選挙になるでしょう。だからこそ、「党利党略」ではなく冷静な「政治を評価する眼」を持ち、日本国民には判断して貰いたいと考えています。

 

創価学会の役職について(13)-区男子部長②

私が区男子部長をしていた期間は1年に満たないものでした。

それは今から二十年以上も前の事であり、いま改めて思い返すと日々お祭りの様に、ひたすら組織活動に踊り狂っていた時期の様に感じます。

ただ改めてその僅かな記憶を掘り返してみると、様々な事を感じたりしますが、その事について幾つか書いていきたいと思います。

◆区男子部長の権威

これは初めに感じた事で、区書記長という立場とは違う意味で、この区男子部長というのは実に権威を持った役職でもあったのです。

ではどの様な事があったのか。

一つ目には妙に気を使われてしまう事でしょか。

例えば部長に呼ばれて男子部の支部活動者会に行ったとします。すると部長はやけに緊張していたりして、変に私を持ち上げる言葉を言うのです。

「本日は斎藤区男子部長に入っていただいていますので、皆でガッチリと呼吸を合わせて行きたいと思います」

この「入っていただく」という言葉。

私はそんな大層な人物でも無いし、区男子部長なんていう立場は大した事なんてないんですけどね。でも支部の男子部員からしたら、何時も自分達を面倒みてくれている男子部の部長がそれほど気を遣う人物なんだという感じで見られたりもしました。また地区リーダーにしても本部長の上に鎮座まします区男子部長は、どうも殿上人の様に感じている人もいたりしたのです。

まあ、私の出身の支部や本部の男子部では、そんな雰囲気はありませんが、区男子部長になると、私が今まで合った事の無い部員や地区リーダなども多くいたので、そういった妙な視点も出て来るのでしょう。

また座談会に出席すると、壮年部や婦人部からかなり気を使われます。

「本日は区男子部長に来ていただいていますので云々・・」

私はそんな持ち上げられる存在なんかでは無いのです。

この事について、例えば地区リーダーや班長と家庭訪問した時にも感じた事があります。

私は支部の活動者会に参加する前、出来るだけ地区リーダーや班長と、その支部の男子部の家庭訪問をさせて頂きました。そうでもしないと区内の男子部の訪問は出来ません。そもそんな時に私が閉口したのは、以下の様なパターンです。

まず地区リーダーが男子部の家に案内してくれますが、そしてその道すがらに、その男子部の状況を教えてくれたりします。それは家庭で問題があったり、仕事で問題があったり。場合によっては最近になり活動を始めた人も居れば、極端なアンチ創価学会の部員などもいました。

そして部員の家を訪問し、男子部員が出て来ると地区リーダーは言うのです。

「今日は斎藤区男子部長と一緒に回らせてもらっています。では斎藤区男子部長、よろしくお願いします!」

この時、私は「へ?」という感じになってしまうんですよね。
確かに創価学会という限られた組織の中では、区男子部長なんて言う肩書は通じますが、それはあくまでも組織の中の論理であって、いきなり初対面の人に会わせられたとしても、そこで私は一体何を語ったら良いんでしょうか。

まあそうは言っても紹介されたからには、何かしら意味ある事を少しでも残さなければならないので、私の引き出しの中にある話を出しながら、何とか探りを入れつつ会話をしていました。

でもねぇ。。何か過剰な期待を掛けられているなと感じる事は多くありました。
私は何も特別な能力を持っている訳では無いし、そこでいきなり初見の人に会わされた処で、その相手を瞬時に感動させて活動家にするなんて出来ません。ただそうは言っても役職を背負っている以上は、何か小さくでも楔となる言葉を語る事を意識していましたね。

また地区リーダや班長、男子部員と家庭訪問や支部活動者会で語らう事も良くしました。そういう時に質問や相談をされた時、私は時々で必死に話に耳を傾け、様々な助言をした事もありますが、それが後になって部員等からは「あの時、斎藤さんはこんな事を言ってくれたので、私は決意してここまでやってきました」という事を報告される事も度々ありました。

これも私はとても怖く感じたのです。

何故ならそんな時に語られる私の発言の大半は、会話の中で何気ない一言である場合が多く在りましたが、その自分の発した何気ない一言が、相手の人生の中で楔になっている事もあったのです。

先輩から良く言われた「孔子は九思一言(九回思い返し熟考して一言を発する)」という格言には、そういった会話に対する誡めの意味もあったのです。

あと区男子部長なると、区内の男子部の中で私に苦言を呈する人(叱ってくれる人)も少なくなります。恐らく過去の区男子部長であった先輩の中には、こういった環境の中で勘違いをする人もそれなりに居たのではないでしょうか。

要は「天上天下唯我独尊」という勘違いですね。確かに妙に傲慢な区男子部長もいましたからね。

当時の私にはこれが一番怖い事だったのです。

折伏活動の時のプレッシャー

この区男子部長という立場は常に奉られている訳ではありません。折伏という活動期間になると、各支部の男子部の部長は皆が必死に折伏成果を競い合います。私が区男子部長の時代も、例えば区部長会等で「気合を入れる」なんて事は一切しませんでした。でもやはり「目標」を立てさせれば、それに対する執着というのは部長という立場の幹部になると必死になる訳です。

それはそうですよね。

区男子部長が言わなくても本部長が部長に詰め寄る事をする場合もあれば、地元の壮年部や婦人部からも「男子部はどうなってんの?」なんてハッパを掛けられたりするのです。

また区男子部長として部長に「支部折伏状況はどうだ?」と聞く事もあったりします。

そういう事もあってか、良く部長から部員や地区リーダーの折伏に付き合ってほしいという要望も良くありましたが、そういう時には物凄いプレッシャーを感じていました。

何故なら折伏を推進している区男子部長であれば、自分の部員の折伏に入ってもらえば、それなりに「結果」を出してくれるものだと部長は期待をしてきます。もし区男子部長が同行して、部員や地区リーダーの折伏で何もできなければ、部員の行動も徒労に終わりますので、やはり部長の中はパッパ掛ける区男子部長が何も結果を出さないという事になると「何だ、ハッパを掛けながら、区男子部長は何もしてくれ無いじゃないか」と思われてしまいます。そしてこれは組織全体の活動への士気にも関わってきます。

だから私が折伏に関わった時、必ず「入決(入信決意カードに記入してもらう事)」を取りました。加えて言えばこの時には多人数で囲むとか、強制的にカードの記入は迫った事はありません。最終的には友人には納得してもらいカードに記入をしてもらいました。

今から考えると、私が創価班大学校や部長になりはじめの時に、この折伏には大変苦労したのですが、それが基礎的な対話力を付ける事に大変役に立ったとだと思います。

この様に部員や地区リーダー等の折伏に同行する前日には、かなりプレッシャーを感じながらやっていました。

◆多くの人と会う中で感じた事

また区男子部長という立場になると、とにかく多くの人と会う事になります。

区内の男子部の統監数は1,800名を越えますので、家庭訪問を中心にして活動しても、日々多くの人と会話をしていく事になります。初対面の人、前向きな人、批判的な人、そんな中で気心が判りあえる人など、様々な状態の人と会い続けていきます。

そんな日々を過ごしていくと、初対面な人であっても、会った時に相手の性格や、その人が抱えている問題点等がある程度判る様になって来るものです。

「君は〇〇という感じで悩んでないか?」
「いま大きな問題を抱えている様に思えるけど云々」

これは何も摩訶不思議な超能力という事ではありませんが、要は「人に対する気付く艦」の様なものが鋭敏になってくるのでしょう。私自身、自分で会話しながら内心で驚いた事も度々ありましたが、そういった能力も出て来る事が有るようです。

ただ最近では、この区男子部長時代の様に頻繁に人に会う事もないので、この感覚はほぼ失われている様に思えます。

 

この区男子部長という役職で経験した事は、これ以外にも多くありますが、それはまた次回以降に少し書いていきたいと思います。

あまり面白味が無いかもしれませんが、もう少しお付き合い頂けたら幸いです。