自燈明・法燈明のつづり

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弘安の役について

日蓮の時代の歴史について、書いていきます。

前にも書いた「文永の役」で、日蓮立正安国論で予見していた「他国侵逼難」は現実なものとなりました。しかし文永の役では、結果として元軍では作戦失敗という事で、日本から撤退しました。

この時、鎌倉幕府は元が再度日本に侵攻する事を予測し、執権の北条時宗は対策を講じ始めました。

元寇防塁と高麗征伐計画

まず時宗は、博多湾沿岸に「元寇防塁(石築地)」を作らせました。

石を積み立てられた防塁は、高さが約2メートル、厚さは3メートルという大きな規模の防塁でした。これは現在でも博多市内に残っています。

また鎌倉幕府文永の役で元軍の尖兵として襲撃してきた高麗へ逆に襲撃しようと「高麗征伐計画」を企てました。そしてその為に博多に軍勢を終結させたのですが、突然、この計画は白紙に戻されたと言います。恐らく防塁構築に多くの資金と人員を割いた事から、船の数を集めれなかったのではないかと言われています。

その後、高麗征伐計画をあきらめた鎌倉幕府は、九州の御家人たちに「異国警固番役」を命じました。これは元軍がまた何時攻めて来るかもしれないという事で、博多湾などの沿岸を3か月交代で警備する事を命じたのです。

◆元の動き

文永の役は作戦失敗で撤退しましたが、皇帝のフビライは日本への侵攻をあきらめてはいませんでした。文永の役の翌年、文永12年(1275年)4月15日に元の使者である杜世忠が長門室津(現在の山口県下関市)に到着し、その後、鎌倉へと召されて行きました。しかしその後、9月7日に杜世忠ら一行は龍ノ口で斬首されてしまいます。この時、幕府は杜世忠らを日本の動きを探りに来たスパイと判断したようです。

1276年(建治2年)になると、それまで戦い続けていた南宋(中国南部にあった国)を降伏させたフビライは、続けて日本への侵攻を考えていた様ですが、この時には部下に止められ日本への侵攻は延期となりました。

1279年(弘安2年)、元は再び日本へ使節団を派遣します。しかしこの派遣団も博多で斬首されてしまいます。しかしこの段階で元には杜世忠も斬首された事も知らされていませんでしたが、その2か月後に杜世忠が斬首された事が元に知らされます。

この報せを知らされた元は瞋り、元の中では「日本を討て!」という機運が高まる中で、日本との闘いの準備は着々と進められていきました。

弘安の役の始まり

1281年(弘安4年)5月、元と高麗、そして今回は旧南宋の軍も日本へやってきました。弘安の役の始まりです。

弘安の役では、元軍と高麗軍の連合軍を「東路軍」、元が支配した旧南宋の軍を「江南軍」として日本に攻め込んできました。「東路軍」の兵士は約57,000人、軍船が900捜。「江南軍」は約100,000人で軍船が3500捜という大規模なもので、これは世界史上では最大規模の艦隊でした。

「東路軍」はまず5月21日に対馬壱岐に侵攻して来ました。当初の予定では壱岐で「江南軍」と合流し、一気に大宰府に攻め込む予定でしたが対馬で捉えた日本人に「日本の軍はすでに大宰府から移動している」という情報を聞き出した事で、江南軍の到着を待たずに東路軍は博多湾に上陸する事を決めました。しかし実はこの情報はフェイクであり、この段階では大宰府に多くの武士が集結し、元軍が来るのをまっていました。

そして東路軍は博多湾に近づいた時、前回の文永の役では無かった防塁が沿岸に作られている事を見て、驚いたと言われています。

これで上陸作戦は困難だと判断した東路軍は、陸とつながっている志賀島に上陸しました。しかし日本軍は志賀島の元軍に夜襲を行い、これで夜が明けた段階でも日本軍が優勢となりました。ここでは伊予(現在の愛媛県)の御家人であり河野通有が、元軍から弓の攻撃を受けながらも将校を生け捕りにするという軍功を挙げました。

結果、志賀島上陸で敗戦した元軍は、一旦、壱岐島まで撤退し、江南軍の到着を待って再攻撃をする事にしました。

兵力では圧倒的な数を誇る「江南軍」ですが、予定の日になっても一向に壱岐には現れません。また東路軍の中では疫病の流行も始まり3,000人を超える死者も出てしまいました。そして日本軍は壱岐島に総攻撃をかけてきました。この壱岐島の戦いで日本軍に押されていた東路軍ですが「江南軍が平戸島に到着した」という報せを受け、直ぐに平戸島へ向かい江南軍と合流しました。

しかし漸く合流できた東路軍と江南軍ですが、その夜中に大型台風が来た事で、元軍の船の多くが沈没してしまったのです。これは東路軍が博多湾に侵攻してから2か月ほど経過をした時期だったのです。

元軍ではこの台風で多くの船と兵士を失ってしまった事から、戦が継続できる状況ではなくなり、ここで日本からの撤退を決めたのです。

しかし撤退する元軍を、日本軍はみすみす見逃すはずもなく、日本軍では伊万里湾にいた元軍に対して総攻撃をしかけました。肥後(現在の熊本県)の御家人竹崎季長が先人切って攻撃をかけ、伊万里湾に残っていた元軍の船を残らず追い払ったと言います。

この伊万里湾にある鷹島には10万人あまりの元軍兵士が置き去りにされましたが、兵士たちは自分達で船を作り逃げようとしていました。しかし日本軍ではこれも見逃さず鷹島の元軍にも総攻撃を仕掛けました。

結果として10万にんあまりの元軍が討たれてしまい、2~3万人の兵士を日本軍では捕虜にしたと言われています。こうして弘安の役の戦いは終了しました。

この弘安の役の時、日蓮は既に身延へ隠棲していた段階であり、特になにも記録などは残していない模様です。

弘安の役の影響

弘安の役でも奇跡的に勝利を収めた日本軍ですが、結果としてこれが後の鎌倉幕府の倒幕への動きへの遠因になったと言われています。

当時、武士は戦いで活躍すると幕府から「恩賞地」を貰える事が普通でした。鎌倉幕府と武士(御家人)との間は「御恩と奉公」という関係性で成り立っていたと言われていますが、具体的には幕府からの恩賞という事がとても大事だったのです。

それまで武士は国内での戦いでしたので、戦いで負けた武士の土地を幕府が没収し、それを幕府が御家人たちに宛がうという事をしていました。しかし元寇は国内戦ではなく国外との闘いであったために、幕府には武士達に宛がう「恩賞地」というものはありません。この事から実際に元軍と戦った九州の御家人は不満を募らせていったのです。

しかも元寇弘安の役)が終わった後も、幕府が九州方面の警備を継続した事で、御家人たたちは資金不足へと陥っていく事にもなりました。

その様な状況の中、鎌倉幕府は何時また元軍が侵攻してくるかわからないので、九州に「鎮西探題」という機関を設置しました。この鎮西探題では九州の裁判を中心に行政や軍事を執り行いましたが、こうした幕府の取り組みも、九州の御家人たちには「鎌倉の北条氏に支配されている」という感じ方をされてしまい、徐々に幕府への信頼も失っていく事になるのです。