
さて、いまこのブログでは政治と歴史という事で、安政の五カ国条約や安政の大獄、そして桜田門外の変について書かせてもらっています。ここでは江戸幕府が開国をするまでの事を書いていましたが、そもそも日本は歴史の教科書でも学ぶ様な「鎖国政策」を何故とっていたのか、そこについては「江戸(徳川)幕府が貿易を独占したい為」であり、実は江戸時代、鎖国が為されていても長崎の出島で交易は行っていましたし、主にオランダとの交易をやる中で、ペリー来航の事についてもオランダから一年近く前に連絡が幕府に入っていた事を紹介してきました。
つまりこれは私が学生時代に学んで来た「鎖国」とは、少しというかかなり性質が違うものだったんですね。このオランダからペリー来航の事を知っていたという事は、完全に国を江戸幕府はとじていた訳ではないという事になりますが、こうなると私は一体、学校の歴史の中で何を学んで来たというのか、少し疑問も湧いてくるわけです。
あと江戸幕府は本気で外国との交易を考えていたのか、という事についてですが、実はそこもちょっと違う様なので、今回はその辺りに焦点をあてて、今回は少しブログに書いておこうと思います。
◆戦国時代の姿
ブログの扉絵にしたのは、宮下英樹氏の「センゴク」というコミックの表紙です。これは小諸藩初代藩主であった仙谷秀久の生涯を通して、日本の戦国時代の事を描いた漫画ですが、仙谷秀久は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三氏に仕えた武将です。その中で戦国時代の事を、新たな観点で描いているコミックであり、私は夢中で読みふけってしまいました。
ここでは織田信長を、戦争により経済を廻した武将として描かれており、常に資金を廻し続けなければ「高転び(転覆)」する政権として描いていました。そして織田信長の家臣の中で、この経済の事に一番通じていたのは豊臣秀吉であり、秀吉は経済の基盤を国内で流通する「米」に置き、それで国内経済を廻し続ける事を考えた武将として描かれていました。そして徳川家康の事は「戦国大名を嫌がりながらも一番真面目に務めた大名」として描いていたのです。
このコミック全編を通して、応仁の乱から始まった戦国時代を、法に拠る統治と経済による統治という、療法の見方で描いているのは、とても面白い観点だと思いました。
◆江戸時代について

さて、応仁の乱とは応仁元年(1467年)に発生しましたが、そこから始まった戦国時代を慶長二十年(1615年)に起きた大阪夏の陣で勝利して徳川家康は終焉させましたが、この時考えたのは、社会秩序を如何に安定させるかという事だったと思います。
そこで徳川家康が考えたのは朱子学を社会の中に取り入れる事でした。
考えてみれば、自分の妻(築山殿)と跡取りである松平元康を自刃させてまで尽くした織田信長、そしてその織田信長の地位を簒奪して天下統一を果たした豊臣秀吉でしたが、その治世も一代限りのものでした。その後を取った徳川家康が、自分の治世の世で如何に社会秩序を安定させ維持させるのか、恐らく大いに悩んだと思いますが、そこで朱子学をその基礎に取り入れる事にしたのです。
朱子学とは中国南宋時代の儒学者、朱熹(しゅき、1130–1200)によって体系化された儒教の哲学的・倫理的な学問体系です。ここでは儒教の古典を再解釈し、宇宙の原理と人間の道徳を合理的に説明する枠組みを構築しましたが、徳川家康はその朱子学が重視している「仁義礼智」「上下の秩序」により武士や民衆に安定した道徳規範が提供できると考えたのです。
そして江戸幕府は、この朱子学を基本として社会の身分制度である「士農工商」を正当化して制度としました。
この身分制度では「士(武士)」は支配階級として存在し、その下に「農(農民など)」を起きました。これは人間が生きるために必要な農作物を作るという事から、社会の中でとても重要だと考えたからです。その下には「工(匠、職人)」を置き、これは生活等に必要な物を作り出す存在として重要だと考えましたが「商(商人、あきないに従事する人)」に関しては「詐なり」と最下位の身分におかれました。要は他人の作った物などを商売で利益を挙げる行為は朱子学からみても「卑しい行為」と見ていたらしく、実はこの様な朱子学の考え方というのは幕末まで続いていたと言うのです。
幕末になり、オランダ国王から日本は交易の拡大を持ち掛けられたと言いますが、その際に幕府はその申し出を断りました。前の記事にも書きましたが交易というのは、とても利益が得られる事であり、戦国時代の織田信長も豊臣秀吉も海外との交易というのは重要視をしていたのです。そんな外国との交易を、何故、江戸幕府が断ったかと言えば、その理由は「祖法により開国できない」というものでした。つまり「先祖からの教えに従い開国は出来ません」というのです。
この背景には徳川家康が江戸幕府を開き、そこで重要視した朱子学というのがとても大きな理由なのですが、要は「交易」とは「人として卑しい行いだ」というのが、幕末時代の武士階級の謂わば常識にもなっていたのです。
でも考えてみれば徳川家康は、織田信長、そして豊臣秀吉の治世を見て来たので、交易が巨額の利益を生む事は理解していたと思いますし、家康自身、「交易」を「人として卑しい行いだ」と考えてはいなかったと思います。これはいわば社会の秩序を安定させるために導入した朱子学の弊害だったのではないでしょうか。
「武士は食わねど高楊枝」という言葉や「武士が商人と同じ心根で良いのか」と言う様な言葉が幕末に言われていた様ですが、それもこの徳川家康が導入した朱子学の影響なのでしょう。
もし江戸幕府が真剣に海外との交易を真面目に考え、取り組んでいれば、そこで巨万の富を蓄えられたので、恐らく薩長に倒される事も無ければ倒幕される事も無かったのではないでしょうか。
そして恐らく薩摩藩や萩(長州)藩などは、この幕末の時代に向けて、もしかしたらいち早く朱子学の縛りを抜ける事が出来た志士が多くいたのではないかと思うのです。
ちょっと脇道にずれた話ですが、少し興味深い内容なので、ブログでまとめてみました。
【参考文献】
・宮下英樹 センゴク、センゴク天正記、センゴク一統記、センゴク権兵衛
・井沢元彦の逆説チャンネル(Youtube)