
私は20代から40代まで創価学会で活動をしていました。
当時は「創価学会こそが世界を救う事が出来る」と真面目に信じていました。変な話ですよね。でも当時は本気で信じていたんですよ。
そんな活動を止めるというのは、いきなりパッと立ち止まる様にやめるという事ではなく、私の場合には幾度かのタイミングがあって、最終的に組織から離れるという形で活動を止めたのです。
ではどんな事があったのか、少し書いてみたいと思います。
◆仕事との絡み
私の家族は嫁と娘2人、あと猫が3匹います。
結婚したのは30代後半で、今の嫁と結婚しました。ちなみに嫁とは創価学会が縁で結婚をしました。
それまで独身時代は身軽なものでした。なにしろ自分自身の生活さへ帳尻あえば、とにかく他を省みないで学会活動に没頭する事が許されました。だからと言って、仕事は適当にやっていたという事ではありません。私はIT関連の仕事をしていますが、当時は知り合いと会社をやっていたので、仕事と学会活動が生活の全てであり、仕事を途中で抜けて学会活動をして、それから仕事に戻り残務を片付けて仮眠して、朝方に自宅へ帰宅する。帰宅したらシャワーを浴びて出勤して仕事をする。
土曜日は比較的に予定が空いている時があったので、その時には自宅で体を休め、日曜日は朝から深夜までひたすら学会活動に忙殺される日々を送っていました。
世間で「ゴールデン・ウィーク」とか長期休暇の話は出ていましたが、当時の私には殆ど関係なく仕事か学会活動のどちらかで、1年間、大半は動き回っていたのです。
しかし結婚するとそうは行きません。
家族との時間も必要になりますし、当然、生活費を稼ぐためにも残業をしなければならなくなります。30代後半になれば仕事量というのは増えてきますので、必然的に会社で仕事をする時間も増えていました。
当時の職場には、同じく創価学会の活動家が3人いて、全員が私の部下でした。
しかしこの3人、正直、仕事は結構適当でした。
当時、仕事はチームで行っていて、私はチームリーダーでした。学会員以外にも数名の部下が一緒に仕事をしていましたが、ある時期は納期も立て続けにあって、他のメンバーも朝から終電間際まで仕事をしていたので、私も必死に仕事に取り組んでいました。
しかし創価学会の活動家だった部下はどうかというと、朝は2時間ほど遅刻するのが常態化しているメンバーがいて、彼は座談会だ会合だとあると、早退しますと平気で言ってきました。まあ基本的には却下していましたけどね。
それ以外にも外出すると直帰で会社に戻ってこないメンバーもいて、私はその尻ぬぐいもあったので、必然的に終電で帰れれば良いくらい。
こんな状況なので、学会活動最優先の生活とは行かなくなっていました。
その当時、私の地元では地方選挙があり、一応、私も企画室という、いわば選対事務局みたいな所を担当していましたが、当然、そんなところへ顔出す時間なんてありません。
そうなると企画室の責任者の青年部幹部から「嫌がらせではないか」と言うくらい、携帯電話に連絡が入ってきます。最初こそ電話には出ていましたが、こちらは仕事で結構大変な状況なので、電話に出れない事も度々あります。すると偶に電話に出たときには、エライ剣幕で叱られる事もありました。
「斎藤!お前いまがどんな時だかわかってんか!?」
こうなるとこちらも電話には出たくなくなってしまうというもの。するともう5分於きに電話を鳴らされるので、いい加減に電話の電源を切る事にしました。
しかしそんな状況であっても、たまに23時頃に帰れる時には、企画室のある貸事務所に顔を出したりもした時がありました。まあ最初は気まずいものですが、組織的なつながりもある人が多かったので、しょうがないですよね。
でも選挙が終盤になると、貸事務所に顔を出したら最期、午前3時までは返してもらえなくなってきました。何もやる事なければ午前1時頃には帰れると思っていましたが、創価学会の職員幹部である壮年部が「私が事務所に戻るまで、誰も帰してはならない」という意味不明なルールを作っていたのです。その壮年部幹部曰く「いまの青年部は訓練が足りない!」という理由から作られたルールでした。
そうなると偶に事務所に顔だししたら最後、何があっても午前3時までは事務所に居なければならず、寝る時間は4時を過ぎてしまいます。出勤が7時なので実質2時間程度しか睡眠時間を取る事が出来ません。
「これでは体が持たない」
そう感じた事から、その後一切、企画室に行く事を止め、学会活動用に持っていた携帯電話も常時電源をオフにしました。
そんな状態のまま、地元の地方選挙が終わりましたが、ある時、職場へ行くと男子部の部下から言われました。
「斎藤さん。いま組織で斎藤さんは退転してしまったと言われていますよ」
退転とは簡単に言えば創価学会を止めたという事を指します。なんでも学会の職員幹部からは「斎藤は使えなくなった」とまで話が流されているとの事でした。
◆人事の話
そんな話を聞いてから、もうどうでもええわと思い、こちらから連絡を取る事も止めて放置する事にしました。
それから1か月ほど経ったある夜中。地元の総県幹部が私に会いたいと自宅に電話があった事を、嫁から伝言で聞きました。なんでも23時過ぎに家に来るとの事。
この時には仕事もかなり落ち着いてきたので、23時には自宅にいましたので会う事にしました。もうこの時には「学会活動のやる気ゼロ」だったので、もう男子部を卒業して壮年部の一会員にしてくれと総県幹部に話をしました。
前後しますが、当時の私は県主任部長。別に担当する組織も無いので居なくてもいいでしょ?と総県幹部に言うと、この総県幹部はそれが頭に来たのか、顔を真っ赤にして怒鳴ってきました。
「斎藤!てめぇはよ!一体何様なんだ!!」
この時には私も頭に来たので言い返しましたね。
「あ??てめぇこそ誰に向かって口聞いてんだコラ??」
「俺はな、仕事もして職場でも部下もって、家庭を以って必死に生きている社会人なんだよ!それに向かって”てめぇ”とはどう言う言い草だ!」
これを聞いた時、総県幹部の顔は急に青ざめました。この時、この職員幹部のほかにもう一人、地元で長い付き合いの幹部が同席していましたが、その彼が「まあまあ御両人」と中に割って入ってきました。
その仲立ちした幹部に聞くと、どうやら今回組織で人事があって、何故か私を県青年部長として据えたいという事で、その話をしに来たそうです。
「斎藤もさ、色々あるんだろうけど、池田先生を悲しませたくないよな」
今なら「知らねぇし」と言う処なのですが、当時はまだ活動家としての心が残っていたのでしょう。結局、この人事を受け入れる事にしたのです。
でもこんな私を青年部長に据えるなんて、当時から青年部人材の枯渇が始まっていたんでしょうね。
この話はまだまだ続きますが、それはまたの機会に。