
ちょっと長くなりましたが、J.L.ホイットン氏の「輪廻転生 驚くべき現代の神話」の中から臨床例を一つ紹介をさせて頂きました。
まず人は今世だけの存在なのか、という事については、以前に以下の事例紹介を行いましたが、恐らく人の心というのは今世の後も続くのでしょうし、今世以前にも心というのは存在しているものと私は考えています。
◆因果の理法
このホイットン氏の臨床例は、この書籍の中でも幾つか紹介されていますが、一般的に仏教では「業因業果」と言い、例えば過去世において仏法を誹謗すれば邪見の家(邪宗教の家庭)に生まれるとか、過去世に泥棒をすれば今世には貧乏の家に生まれるという事が言われていますが、ホイットン氏の研究の中で見えた業因業果とはそれとは異なるようです。
ホイットン氏が退行催眠の中で、被験者のいくつもの過去世の人生、またその終焉の度に訪れる中間世の中で、常に行われていたのは、「課題解決の為の問題設定」という姿であり、その時々設定される「問題」が「業(カルマ)」であるというのです。そしてそれは「前世に人を殺したから、次は殺される」とか「前世は泥棒だから今世は貧乏人」という事ではなく、人の人生とは中間性で自分自身が計画してきた事であり、その計画の中で問題を設定し、それを乗り越え受容する事で、その人の人格向上に向かう事が出来るという事を、生きていく上の問題として持って生まれてきているというのです。
現にホイットン氏の臨床例の中では、その事に気付き、その問題と正面切って向き合う人たちが劇的に変化する姿が紹介されていました。これはまさに「予定調和」という事に近しい事なのかもしれません。ただ提唱者であるドイツの哲学者であるライプニッツの言う「神が計画した」ではなく、ホイットン氏は「自身が選択した」という結論を出しています。ホイットン氏も恐らくキリスト教信徒とは思いますが、こういった結論に至った処は実に興味深い事ですね。
ちなみに仏教の中には「願兼於業」という考え方があります。
これは既に煩悩をほぼ断じている菩薩が、人々に法を説くために、あえて「業(カルマ)」を背負って生まれてくるという考え方です。ホイットン氏の考えている「業(カルマ)」は、どちらかというとこの考え方に近しい事と私は感じています。
私はこの事によって、全ての「因果」の流れを否定するという事ではありません。この世界の中に於いては、物事とは常に原因があって結果があるという流れです。今の科学にしても基本的にはその考え方の上に成り立っています。しかし人の心の内面の世界に於いては、この因果という関係はそんなに単純な事では無いようです。
◆人の人生は計画されているか
またホイットン氏の症例の中で、「神殿」と「裁判官」という言葉が多く出てきます。そして裁判官はその人物の過去の生き方を知悉して、次の生き方の助言をすると言います。またこれに似た話としては、エベン・アレクサンダー氏の中では「光る存在」というのが出現し、木内鶴彦氏の臨死体験では、この世界の成り立ちについて理解出来たという話もありました。
ここでまず考えなければいけない事は、人は目の前に出現した出来事を言語化するには、それまでの経験で理解した事を使い、出現した内容をその言葉で表現するという事です。例えばその人が尊極な存在と感じた事を、キリスト教徒では「神」という言葉や外観で説明し、仏教徒であれば「仏、菩薩」として表現してしまう事もあるでしょう。だから「裁判官」とか、臨床例として紹介したヘザーが語ったエジプト紳のイシスという存在は、何もその名称に固定されたものではなく、そういった言葉でしか表現できない存在と出会ったという事なのではないでしょうか。
ここで大事な事は、数ある臨死体験や、退行催眠による中間世の体験とは、心の内面の事象という事であり、そこで経験した出来事は、人々の心の中の奥底、それは恐らく日常生活では本人すら感知出来ないレベルの事象である、そのレベルではこの世界の成り立ちや人生の意味、そして目指すべき事という事を理解している部分があるのではないかという事です。
この事を考えてみた時、日蓮が開目抄で書いた以下の言葉についても、より具体的な事象として見えてくると私は考えているのです。
「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」
またその心の奥底にある存在との間で、人生とは計画されてきていると言いますが、先のヘザーの話でも見て取れるように、その計画とは絶対なものではなく、成就する事もあれば挫折とん挫する事もあるようです。これは最近、別な話でも良く聞く話しで「過去は決まっているが未来は不定である」という事と同様な事を指しています。
人生とは自らがこの世界に生まれる前に、自分自身で人生を設計し、その為に必要な課題を「業(カルマ)」として背負って生まれてきますが、それはけして運命論者の言う「決まった運命」ではなく、あくまでも「計画」であるので、その目的を達する事が出来るのか、出来ないのか。そこは個々の人生の生き方次第という事なのでしょう。
ただこういった話は、行きつくところ自分自身で、理解出来るか出来ないかという事であって、他人が「予定調和」だ「お前が計画してきた生き方なんだ」という事ではありません。そこを間違えてしまうと、これはとても危険な思想にもなってしまいます。
以上、少し長い文書になりましたが、久遠実成から本門の十界の因果という話を紹介してきました。これに対する確証も無ければ、これが絶対の定理という事でもありません。そもそも仏教自体が、二千年以上にわたり、多くの人師や論師が経典を軸として、思索し構築された思想体系なのです。それを各自がどの様に自分の人生の上で解釈し、生きるかてと出来るか、そこが一番大事な事だと思います。
ここで書いた事が、読んでいただいた人の人生に、少しでも役に立つことがあれば幸いです。