自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

分裂始める創価学会

ネットで見ていると創価学会の中、末端組織のメンバーも、教学要綱の事や、最近あった公明党自民党「裏金議員」の推薦の事で、少し揉めている感じがしますね。

ただこれはネット上だけの話で、私の地元を見てみると、実働部隊たる末端組織は少子高齢化と、主要活動家の離脱が見えるものの、それほど揉めている様には思えません。ただそれ以前に組織内にも様々な人がいますので、そういった組織内人間関係で小さなもめごとは相も変わらずの状態ですし、活動家の減少に歯止めがかかっていない状況です。

この教学要綱だ教義改正だ、自民党の「裏金議員」の推薦だという事の話題は、実際の末端組織では微塵も話題にはあがっておらず、また昨今の日本社会の現状も話題に挙げる事なく、今年ある参議院選挙や東京都議会選挙を「大法戦」と呼んで、「信心の戦いで」なんてやっている様です。

ちょっとネットに垣間見える状況で、今回は少し記事を書いてみます。

ネットで教学要綱については、現状の執行部の方針が時代即応で正しいという擁護派と、いやいや昔からの教学(日寛師の教学)が正しいので執行部は間違いだとする否定派で議論が二分されている様に見えます。ただ互いに「池田大作先生」を中心にして、言葉は悪いのですが罵りあっています。

ただこの現状を見ると、今から二十年近く前に舵を切った「師弟不二」というのは、実に組織の分裂を防ぐ事に貢献していないのが見て取れますよね。

正木(当時)副会長なんかは、二十年近く前ですが、

「過去の宗教団体は教義論争で組織が分裂した。だから創価学会は教学ではなく師弟で行く」

と豪語していましたが、今のⅩ(旧ツィッター)の議論を見ていると、この師弟不二は組織分裂の防止にはあまり機能はしていないようです。何故なら擁護派も否定派も、池田大作先生の真意は私達にあり、という事で議論が展開されているのが見て取れます。

まあ池田大作先生にしても、生前は「ダブルスタンダード」の様に立ち位置をコロコロと変えて来ていましたから、結果として組織をまとめる「アンカー」にはなり切れていない様に、私から見たら思う訳です。

例えば過去、上智大学の安斎教授との対談の中、当時の池田大作先生は「大御本尊であっても、所詮は物に過ぎない」と発言し、富士大石寺にある「戒壇の大御本尊」について語り、「そこに顕された法が大事」だと語りました。それに対して安斎教授からは「物や聖地に拘らない姿勢は良い」と評価されたんですよね。

でもいま、創価学会では「大誓堂」という聖地を信濃町に建設し、そこでは池田大作先生の音声データを再生して、それに唱和出来る事の喜びなんかを会員に語っている訳です。

これはダブルスタンダードの一つですね。

また2015年の安保法制(正式名は平和安全法制)の時には、慶応大学の小林節教授が「憲法を空文化する行為」と指摘していましたが、創価学会の政治部門である公明党は賛成に回りましたし、当時は創価学会青年部有志とかでも「安保法制賛成」の署名活動を展開していました。これについてはオスロ大学の平和学博士のヨハン・ガルトゥング博士も池田大作先生に、この法律制定についての懸念を書簡で送りましたが、肝心かなめの池田大作先生は完全無視を決め込んでいます。

慶応大学の小林節教授にしても、ヨハン・ガルトゥング博士についても、一時は共に平和を語り合った仲のはずが、こんな粗雑な対応をしているんです。だから私は池田大作先生の事を「ダブルスタンダード」と呼ぶ事にしています。

創価学会の教義改正について。

私は創価学会の活動を止めてから十五年近く、この創価学会の教義、日寛師の教義について振り返りをしてきましたが、端的に言えば、日寛教学自体に問題がある訳で、それを昭和初期頃の富士大石寺は教学の根本として据えていました。それがそもそもの問題であったわけです。

しかし牧口常三郎戸田城聖は、その富士大石寺の仏教を「絶対に正しい教え」と信じて創価教育学会、創価学会を動かしてきた訳ですから、そもそもそこからが問題であって、今さら創価学会の教学要綱を中心に擁護派と否定派が争っている事自体が、滑稽な姿に見えてしまいます。

そもそもオカシな教えを「正義」だと信じて「折伏」して組織を急速膨張させ、ダブルスタンダード池田大作先生を「永遠の指導者」に据えているんですから、これは質の悪い冗談というものでしょう。

日蓮の言葉を借りるなら、

「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」
(諸経と法華経と難易の事)

まさに今のネットにある創価学会の議論とは、こういった事ではないでしょうか。

またそんな組織が支援して政権与党に公明党は参画している訳ですから、日蓮立正安国論の趣旨から見たら、この日本国という国家もおかしくなるのは当然の話ですね。

自民党の「裏金議員」への推薦だけを見て、それがとんでもない事だとか、いやいや「裏金」ではなく「記載不備」だ、なんてやりあっていますが、そもそも創価学会公明党という政治部門を介して、日本の政治に関与している姿勢自体が問題なのではありませんか?

民主主義に於いては、自分自身の政治の代理者を投票で選択するわけです。だから代理者足りえないと思うのであれば、選択しなければよい。要は投票しなければ言い訳です。そしてそれが大多数になれば、その票で当選していた議員は落選する。そういう仕組みが議会選民主主義ではありませんか。

それを「池田門下は同志(この場合、政治部門から立候補した議員)を当選させる事が、戸田先生の言う“政治を監視する”に当たる行為で、意見によりその同志を支援しないのは単なる批評家だ」なんて言って、何時までも公明党を甘やかすから、公明党議員も政治家として独り立ち出来ない。

そうではありませんか?

創価学会の会員であっても、多くに自民党議員が行った「裏金」という行為が許せないとするなら、公明党が推薦しても支援しなければ良いだけではありませんか。それを「記載不備」だから問題ないなんて、何故、公明党自体が釈明しているのか、私には全く理解できません。

最近では公明党の落選議員のユーチューバーを中心に、SNS上で公明党の露出度がかなり上がっていますが、公明党やその周辺がいくら喧伝した処で、私なんかから見たら、そもそも根っこがグズグズなので凋落傾向は止まらないと思うんですけどね。

岡本政調会長は記者から公明党の退潮状態は、何が原因なんですかと問われ「宣伝下手なんですかね」と答えていましたが、それはピントがずれている事、甚だしいと思います。しかし岡本氏についても創価学会の現在の組織の実態なんて理解していないので、そういった発言になっているんでしょう。

公明党の退潮も、基礎である創価学会の組織が弱体化している事から始まっている訳であって、それを理解しているのであれば、SNSへの露出度を上げる行為にうつつを抜かす事は、ピント外れな行為だと判りそうなものですが、どうも公明党の国政、地方議員もその辺りは認識していないようですね。

本当はこれらの事をⅩ(旧ツィッター)に上げようかと思いましたが、どうもあそこはそういった場所でもありませんので、今回はここに記事として上げてみました。

 

皆さんは如何お考えですか?